QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
もう7、8年前のことになるだろうか。友人のお母さんが亡くなって、その後しばらく経ってから、部屋や衣類などの片づけの手伝いに行ったことがあった。その際、本棚も整理したのだが、棚には武田泰淳の著書もあり、その名前が友人と私、二人のうちのどちらからか出たとき、そばにいた友人のお父さん(もう80をいくつも過ぎていた。この数年後には亡くなられた)が、すかさず「泰淳よりも、奥さんのほうが上手いんじゃないの。」とはっきりとした口調で仰った。もしかすると、「上手い」ではなく、「おもしろい」とか「いい(すぐれている)」という言い方だったかも知れない。お父さんは無口な方であり、突然のことでびっくりしたのだが、私も友人も「そうかも知れない」「そうですね」という返辞をしたように思う。武田泰淳は小説家であり、妻である百合子さんは小説は書いていないから、二人を比べるのはそもそも無理かも知れないし、友人のお父さんにしても何も夫の泰淳をけなしたり、ケチをつけるというような意図は全然なかったと思う。ただただ、武田百合子の文章がおもしろく、受けた感銘があまりにも深かった、印象が鮮烈であったことがこのような表現をとらせたのではないかと思う(余談ではあるが、このお父さんは晩年にいたっても岩波書店の『世界』の購読者であった。おそらく数十年来の読者だったかと思われる)。

このお父さんではないが、私にしても、今「随筆」といってすぐに思い浮かぶのは、内田百と並んで武田百合子の名であり、その文章である。それでは、前回につづき山小屋の暮らしをつづった文章を「富士日記」より引用して掲載する。

「 昭和43年 (1968年)
 3月25日(月) 雪一日中降る
 夜半に雨の音がしていたが、七時半、起きてみると、雪はうすく積ってまだ降りやまない。
 朝 ハヤシライス、スープ。
「今日はくもりのち雨となり‥ます。春の雨。菜種梅雨です」と、テレビはまた言っている。この辺で雪が降っていることなど知らないらしい。
 主人、スチームバスに入りたいと突然言う。二年位使わなかったスチームバスを倉庫から出し、花子と二人で組立てる。庭の方へ向けて食堂に置き、雪が降るのを見ながら主人入る。そのあと顔を剃る。私、花子も雪を見ながら、入る。
 主人、スチームバスが気持よかったらしく「大岡がこれをみたら入りたがるにきまってるからな。折りたたみだから貸してやってもいいな」。大岡さんは入りたがらないかもしれないのに、そんなことをいっている。
 昼 ふかしパン、キャベツ酢漬、ベーコンスープ、紅茶。
 昼食は花子が作る。雪となったので、キャベツの芯まで薄く切って、丁寧に使う。

 6月1日(土) くもり 
 二時ごろ、大岡さんへ行く。晩にビールにお誘いする。コッカースパニエルの六カ月の子供がきている。私に喜んでとびつく。よその人が大好きな犬なのだそうである。
 昼寝をする。
 六時、大岡夫妻と犬がみえる。奥様、ワラビのおひたしを作って持ってきて下さる。
 夜 ビール、黒ビール、春巻、シュウマイ、ビーフシチュー、のりおむすぴ。
 犬の名は、本名をアンドレ、愛称はデデちゃんという。この犬はおむすびが大好物らしく、とび上って食べてしまう。主人が厚い木綿の兵隊靴下をはいて脚を組んでいると、デデは高くなった方の足の先を、首をのばしては噛んで喜んでいる。主人が足を揺らすと余計喜んで足の先をしこしこ噛む。大岡さんは、はじめのうち黙っていたが、我慢ができなくなったらしく「デデ!! それは汚ねえんだぞ」と、デデに注意した。
 ワラビの作り方(大岡夫人に教わる)

 6月3日(月) くもり 
 夜六時、二人、大岡家へおよばれ。
○ビール
○湯葉の煮たのの上に山椒の葉一枚のせたもの
○ワラビの酢のもの
○山ウドと椎茸の甘煮
○かに、にんじん、椎茸の卵とじ
○かにコロッケとトマト
 大岡家の御馳走(ビール以外は、全部大岡夫人が作ったのだ)とてもおいしい。
 デデは一昨日、うちでおむすびを食べすぎたらしい。今日はあまりもらえない。テーブルの下で私の足を噛んでいる。大岡さんに判らないように噛ませる。
 大岡家のかにコロッケの中味のこと
○ホワイトソースの中にゆで卵を入れると、固まり易くていい(奥様の話)。

 8月22日(木) 晴れ
 大岡さんの新しい車の窓硝子は、走ってきて曲がってゆくとき、光線の加減で紫と青の間のような色に見える。正午近く、私が管理所から帰ってくると、大岡さんの車が坂の上バス停の方から疾走してきて大岡家への曲り角を右折していった。デデと大岡さんは乗っていない。大岡夫人はサングラスをかけて藍色の和服で運転。大岡夫人の顔色が硝子の加減か蒼白く着物が青くて、その美しいこと優雅なこと。大輪の青い朝顔のようだ!! 私は道ばたの石に腰かけて見送った。感動したときには体操をして現わすことにしているから、車のうしろに向って「万歳」を三唱した。陽盛りの野原には、われもこう、おみなえし、ききょう、キスゲが咲き乱れて、蝶が死にもの狂いで舞っている。

 テレビで。教養番組「中国の知識人」をみる。「佐々木〔基一さん〕は眼つきがいいなあ」と主人、つくづくと言う。
 テレビは、チェコの放送を、今日も続けてやった。
  夜、星なし。風が涼しすぎて素足では寒い。カーテンにスイッチョがとまって、あちこちで啼く。蚊は風呂場に集ってしまった。
 九時近く、しとしとと雨降りだし、夜遅く、大雨。


 昭和44年 (1969年)
 4月8日(火) くもりのち風雨強くなる
 今日は花祭りである。NHK教育テレビ后八時より「仏陀の思想」がある。それに主人は出ているので、一寸みてから寝るといっていたが、眠くなってきて7時にねた。代わりに私がみていた。
 テレビのニュースで。連続射殺魔少年の下宿を調べるとメモが出てきた。それは金銭に対する異常な執着を示していた、といってテレビは騒いでいる。「貧乏だったんだ、いいじゃないか。お金に執着のあるメモがみつかったって。そういうお前は金が好きじゃないのか」――解説者があまりにもしたり顔に報告するから、テレビに向かって私は声を出して言ってやる。
 台所の引出しに「オレンジジュースの素」があった。お湯で薄めて飲んだら気持がわるくなった。三年位前のお中元のだから腐っていたのかしら。

 7月11日(金)
 朝 ごはん、鮭のフライ、キャベツとにんじん酢抽漬、豆腐とわかめ味檜汁。
 昼 お好み焼(桜海老、ひき肉、青のり、ねぎ、きりいか)、かぼちゃと茄子の妙め煮、スープ。
 夜 ごはん、炒り豆腐、きゅうりのあんかけ、のり、うに。
 食堂の硝子拭き。夕焼でも虹でも花畑の花でもごはんを食べながらみられる西側の二枚の硝子戸は、ことさら念入りに磨く。主人はテラスで風に吹かれている。
「帝銀事件の平沢画伯が描いた絵で、日本髪結っためくらの女の人が鏡に向っている絵見たことある? 『心眼』て題がついてるの。ずい分昔に一回しかみたことないけど忘れられないよ。あれ? この話、あたし前にもしたっけね。どういうわけか、硝子磨いたり鏡磨いたりするとき必ず思い出す。誰もいなければ一人で思い出しているだけだけど、そばに、とうちゃんがいるとついしゃべっちゃう」「もう何度もきいたぜ。しかし、まあ、しゃべりたきゃ、しゃべったってかまわんがね」
 それで、また、この話をながくながくしゃべってしまった。

 8月1日(金) 晴
 十時半、山に戻る。先に大岡家へ寄り、鱒ずしと赤坂もち、その他野菜を届ける。デデが帰ってきていた。

 8月2日(土) 晴のち曇
 主人、朝から下痢。仕事部屋でふとんをかぶってねている。便所にたっては、またねる。

 8月3日(日) 快晴、俄か雨あり
 主人の下痢はすっかり治った。朝からオムレツが食べたいと言う。

 8月4日(月) 俄か雨ののち陽がさす
 朝から「朝ごはんのあと大岡のところへ犬を見に行くぞ」と、主人急かす。あまり早く伺ってはわるいので、ゆっくり後かたづけをして、十時過ぎに出かける。
 大岡さんは、一昨日の午後から胃が痛くて、下痢をして熱が7度3分あるとおっしゃる。主人は「俺のはもう治った。俺のは東京に二日いる間、ビールを飲み続けてクーラーにあたっていたから冷えたのだ」と、いやに元気よく主張する。「女房は下痢しないで俺だけした」と言うと、大岡さんも、「女房は下痢しないで俺だけだ」とおっしゃる。(私は鱒ずしのせいかなと思ったが黙っていわないでいた)。大岡さんは下の町でクロマイシンを買ってきた。大岡さんは、「クロマイシンはほかの菌まで殺してしまうから、あまり沢山のんではいけないんだ」と、のみながら教えて下さる。「吉田の医者を紹介してもらうから、お前のところもそこに行け。病気の時に急に行って頼んでも具合がわるいから、まず前に俺が一回行って顔つなぎをしておくから」と言って下さる。「そうすれば、往診もしてくれるぞ」「うちはワカマツをのんで、いつも治してしまうよ」と主人は言っている。
 記念品にもらったガスライターのガスを大岡夫人に入れて頂く。大岡夫人は、小さいねじまわしを出してきて、眼鏡をかけて、すぐうまく入れて下さる。私はその入れ方を見ている。「夫婦ともライターが判らないのか」と大岡さんは呆れる。「夫婦ともライターがいじれるのか」と武田は感心する。「私は自動車きり、それも自分の自動車きりしかよく出来ない」と、私は言う。
 大岡さんは、吉田で買ってきたリズムアンドブルースのレコードをかけて、リズムアンドブルースについて教えて下さる。武田が、ふうん、と言っているだけなので、「武田はテーマミュージックしか判らねえんだな。武田向きのやつをかけてやろう。『その男ゾルバ』というの知ってるか」。リズムアンドブルースを中途でやめて、ちがうのをかけて下さる。「白い恋人たち」というのも一枚かけて説明。私は「白い恋人たち」は知っていた。そのあと、大岡さんはもう一度「その男ゾルバ」のところだけかかるように狙って針をおとす。ちゃんとぴったり、うまくかかる。奥様はおかしそうに首をかしげて佇っている。十一時ごろ、おいとまする。
 昼 ホットケーキ、紅茶、かにときゅうり三杯酢。
 陽があたりはじめる。洗濯ものを出し、主人はテラスで日光浴をはじめると、パラパラと雨が降りだす。それの繰り返し。「大岡のように忙しい天気だなあ」と、主人言う。そして、「大岡の下痢、本当は鱒ずしのせいかもしれないぞ。鱒ずしだと思っていると困るから、俺のはビールとクーラーだぞと何度も言ったんだ」と言った。
 夜 ごはん(桜めし)、しらす、大根おろし、金山寺味噌、いんげんピーナツ和え、みょうがと卵の吸物、夏みかんゼリー。

 テレビで。
 富士山有料道路一合目の上で、埼玉の畳屋さんの乗用車と静岡の枕製造業のマイクロバスが衝突、双方に重軽傷者を出した。乗用車のスピード出しすぎと、見通しのきかないカーブのため。
 昨日、大学法が強行採決されたので、今日は学生のデモ、文部省の前あたりに機動隊が出て、六十人逮捕された。まだ夜間デモ、集会が続いている。


 昭和45年 (1970年)
 7月20日(月) 晴、風なし
 夕食後、ぽんやりと外を見ていると、大岡夫妻がみえる。桃一箱と神戸牛の粕漬を頂く。
 大岡さんの小説の中の文章が紅葉台の「Y」ドライブインの前に看板になって出ている。承諾をとりにこないで勝手にしている。そのことと、看板はやめてもらいたいので、出版社から話をつけにいったら、桃二箱と山菜の味噌漬のようなものをごちゃごちゃと持って謝まりにきた。秋まででやめてもらうことになった、という話。この桃はその一箱。
 デデは一週間経ったら山へ来るそうだ。
 大岡さんと奥様は、きじ料理屋に入ってみたそうだ。千二百円できじ鍋というのを食べた。肉は数えるほどしか入っていない。でも、まあまあ食べられる味だった。奥の部屋では土地の文化グループらしい人たちが、短歌か何かの会をやっていた。「あの人、才能あるじゃんか」と大きな声でにぎやかにやっていたそうである。
 大岡さんは、今年、現在は、フォーリーブスの大ファンで、テレビは欠かさず見、レコードも買い、ゴシップも沢山知っている。フォーリーブスの中の西洋人のような顔の男の子のファンだったが、その子がへンに薹がたってきたので、別の男の子にした。前は九重祐三子(?)のファンだったが今はこれ。(これは大岡夫人が語りました。)

 7月28日(火) 快晴
午後二時ごろ、パンクタイヤを持って下る。スタンドでみてもらう。太いねじ釘がささっていた。一週間位前からブレーキをふむと妙な音がしていたので、ついでにみてもらう。部品を取り替えなければならない。タイヤが直ってから部品を買いに行ってくれ、全部終ったのは六時過ぎ。

 スタンドは今年はアルバイトの女の子三人と十六歳位の 少年、整備の出来る若い衆がいる。ノブさんもきている。ノブさんは中年になって肥り気味だ。
 スタンドのおばさんは、風通しのいい日陰のベンチに私を坐らせ、自分も隣りに坐って話しこむ。中央道が出来てからは途中のスタンドで給油してくることが多く、おばさんやノブさんの顔をみるのは久しぶりだ。
 おばさんは隣りに坐るなり「万博に行ったか」と一番はじめに訊くから「行かない」と答えると「ここらでは三人に一人はいかない。わしはその一人の方よ。今年は忙しくて、まだ行ってない」と不満そうに言う。忙しかったわけは、去年おばさんのお母さんが八十歳(?)で死に、少し経ったら、そのおばあさんのところに四十年居候していた、まるきりの赤の他人で、どうして居候していたのか、おばあさんも本人もまわりの人も、よく判らないような按配のおじいさんが死に――これも八十歳位。クリスマスころから脳溢血で倒れていたスタンドのおじいさん(おじさんのおとうさん)が正月の二日にちっとも苦しまずに死に、六月におばさんの姉さんが五年もの間入院したり退院したりしていたが、東京の病院で死んだ。四人も死んで忙しかった。スタンドのおじいさんが倒れる前に、一カ月半ほどおばさんが新宿の病院に胃が悪くて入院した。いまでもおばさんは錠剤「命の母」と、のみ薬を四種類毎日のんでいる。この辺は坊さん一人五千円のお経料をやる。盛大な葬式なら一万円位。戒名のいいのをつけてもらうには五万円位やる。もっとやる人もいる。このごろはお互いに商売していて忙しいので、四十九日や新盆などでもよばないで、配りものをしてすませる――と、こんな話をおばさんはした。
 私がきじ料理屋の話をすると、「あのきじ料理屋は宿屋だったが場所がわるくて、ほかの宿屋がどんどん出来はじめて客をとられるので、考えてきじ料理の店にした」のだと言う。
 おばさんは急に思い出したらしく、「テレビの『細腕繁昌記』は面白いね。出ている人がみんなうまいね。いろいろ考えて商売してるっちゅうところがいい。『信子とおばあさん』よりこの辺では人気がある。信子はつまらなかったねえ。何のこともなかったねえ。細腕は面白い。みんなあんな風にして商売してるだ。みんなあれとそっくりだ。商売してるもんはいろいろ考えに考えてやってるが、なかなかうまくいかねえな」と、しんみりとして一人でうなずいていた。


 昭和46年 (1971年)
 7月8日(木) 晴
 午前中、吉田へ買出し。
 ハチミツ五百円、仁丹、茄子、きゅうり、赤いすもも一箱二百円、トマト、豆腐、油揚げ、豚ひき肉、ワンタン皮。罐ビール一箱、瓶ビール一箱。
 留守中に大岡夫人が「今夜来るように」と誘いにきて下さったとのこと。五時半に二人出かける。
「何故、およびしたかというと、ワグナーのレコードと新しいステレオと新しいカラーテレビを大岡はみせたくて仕方がないんです」と大岡夫人は、おかしそうに言われる。
 大岡さんは、毛むくじゃらのじゅうたんに寝ころんでいる。寝ころんだまま、ステレオのスイッチをひねれるように、新しいステレオが置かれている。スイッチを入れると、部屋の隅の四角い二つの箱の方からいい音が出てくる仕掛になっている。寝ころんだ位置できくと一番いい音なのだそうである。ワグナーのレコードは、カステラの箱を二つ重ねたほどの厚さの箱だ。中にはワグナーのレコードのほかに三冊、本が入っている。この本を読んでから、この中に一緒に入っている解説のレコードをきいて、それからワグナーのレコードをきけば、ワグナー研究学者第一人者になれてしまうほどの精しさのものだそうである。ラインゴールドのはじめの方と、ワルキューレのまん中へんと、解説(日本語)のレコードのはじめの方をかけて下さった。
 主人は「ワグナーをきいていたら霊感が湧いて、小説の題を二つも考えてしまった」と言った。大岡さんは「貸してやるから持っていっていいよ」とおっしゃった。大岡さんは「タダでこのレコードは貰ったけれど、本当は十四万円ぐらいするぞ」とおっしゃった。
 お刺身を御馳走になった。楽しかった。
 足もとが暗いので、大切なワグナーは明朝運ぶことにして車の中に置いて庭を下る。
 今夜は二人とも早く眠る。

 7月15日(木) 快晴、夕方雨
 朝 ごはん、味噌汁、うに、のり、卵、いわし大和煮。
 昼 パン、野菜スープ、トマト。
 夜 ごはん、コンビーフ、たたみいわし、おひたし、清し汁。
 気が遠くなるようなよい天気。草刈りをする。そのあと、水を沿びて、テラスで風に吹かれていたら、いつのまにかねてしまっていた。
 午後、私が食堂の椅子に腰かけているとき、テラスから主人がふっと入ってきて、硝子戸を音をたてないように閉めはじめる。一人で黙ってそそくさと閉めている。全部閉め終ると「タマは外に出ているか。タマを出さないようにしろ。百合子、じっとして音をたてないようにしていれば大丈夫だからな。いま熊が、そのつつじの向うを歩いている。もうじきほかへ歩いていくからな。じっとして外へ出ないでいろよ」と、低い声で抑揚をつけずにゆっくりと言った。タマは二階に昼寝している。二人は食堂の椅子に並んで腰かけていることにした。熊は大きな犬の三倍位の大きさだったという。遊びながら散歩している風に庭先を横切ろうとしているようだったという。しばらくして「もう 大丈夫だろう」と主人は言った。私はいそいで大岡さんへ行く。「熊がいたから、デデを外に出さない方がいい」と言いに行く。主人が報らせておけというので管理所にも行く。「あの、私が見たのでなく、主人だけが見たのだから、主人は眼がわるいので、もしかしたら間違っているかもしれないのですが……」と、小さな声でいうと「何かね。ごみの棄て方かね」と不審そうな顔を向ける。「熊が出ました」と言うと、大騒ぎになってしまった。ガードマン一人と管理所の人三人位がジープで来て、熊の歩いていった方角へ向って林の中を、洗面器やバケツを叩いて見回ってくれる。いなかった。
 今日のテレビは、ニクソン訪中のニュースばかりやっていた。

 7月22日(木) くもり、夜に雨
 涼しい。時々晴れては、くもる。
 タマ、今日ももぐらの子供をくわえて来る。しばらく遊んでいて、死ぬと放り出して外へ出て行った。土に埋める。

 8月4日(水) くもり、風つよし
 タマ、暗くなって大急ぎで家に入って来る。いつもより急ぎ足なのは、もぐらをくわえてきて、みせたかったからだ。もぐらは、この前のより成長して倍ほど大きくなっているが、毛並はまだ子供らしくビロードのようだ。ビロードの色は真黒から薄墨色に、もぐららしく変ってきている。前足もこの前のよりずっと大きく、水かきがついているみたいにひろがっている。主人は「タマ。お利口さん、ああ、つよいつよい。えらいねえ。そうかそうか。見せてくれるのか」と、しきりに猫に話しかける。そして私に「こういうときは、ほめてやらなくちゃならんぞ。もぐらをとりあげて捨てたり叱ったりしちゃいかんぞ。猫がへンな性格になるからな。いじけるからな」と言いきかせる。私も「タマ、よく見せにきてくれたね。ありがとさん。そうか。お前はつよいね」と、真似してほめた。今日のもぐらは丈夫らしく、いつまでも動いているので、タマは満足して遊んでいる。やがて動かなくなると、ふしぎそうにみつめて、放り上げてはバスケットボールをしているようにいじっていたが、ふいと飽きて、箱に入ってねてしまう。

 10月23日 くもり
 昨夜、中公の谷崎賞の会があったので、今朝「今日はやめておく? 一日のばす?」と訊くと「山へ行く。紅葉も見たい、少し休みたい」と言う。予定通りに出かける。昼少し前に赤坂を出る。
 中央高速道に入って、真直ぐの道をスピードをあげて走り出したとき「昨日、中公の会に出ていてしゃべっていたら、急に口がうまくきけないんだなあ」と、赤坂を出たときから眠っているようにしていた主人が話しだす。顔をみると、いつもの通りの顔色で、おかしそうに、うっすらと笑っている。少し恥ずかしそうにしている。
「そう。うちへ帰ってきても、だから黙っていたの?」
「会から帰ってくる車の中では、もう治ってたんだ。酒飲んでくたびれてたからなあ。淑子さん〔嫂〕の話はきいてただけだ。口きくのが面倒くさかったからなあ。あのときは治ってたんだ。ヘンだったかなあ」
「別に。あたしは、いつもよりお客に口きかないな、と思ったけど。お嫂さんはへンとは思わなかったでしょ。気がつかなかったみたい」
 主人は「腹がすいた」といって、持ってきたサンドイッチを食べはじめる。
「このまま、山へ行く? 戻って医者に診てもらおう」
 頸を振りすぎるほど振って、じろりとにらむ。サンドイッチをのみこんでから「山へ行けば治るさ。酒の飲みすぎだ。判ってるんだ。医者なんかみせたって同じだ。こうやっていたいんだからいさせろよ」
 私は真直ぐ向いたまま、ずっと車を走らせた。
 主人は手をのばして私の髪の毛を撫でる。
 語気を荒くしたことを恥ずかしそうに、お世辞をつかうように「こうやっていさせろよ」と、今度は普通の声で言いながら。
 山へ着いて、遅い昼食。ごはん、じゃがいもと玉ねぎのオムレツ、スープ、りんご。
 主人も私も昼寝。
 夜 牛肉バター焼、ごはん、大根おろし、わかめとねぎ、味檜汁。
 いま、庭に芥子が咲き乱れている。いまごろになって咲いている。

 10月24日
 本栖湖、西湖、朝霧高原へ行く。紅葉を見に。
 昼 天ぶらうどん、おひたし、りんご。
 食堂で主人の髪を刈る。そのあと、主人入浴する。
 タマが庭をせっせとおりて来る。会社員が夕方、家へ帰って来るときのように。遠くから見ると、タマの顔に黒いひげが生えているようだ。テラスまで来るとタマは得意そうに顔を仰向けてみせる。蛇をしっかりくわえている。三十センチ足らずの小蛇だ。蛇はくわえられて苦しいから脂がにじんで反りくり返っている。だからひげのように見えたのだ。「あ、タマ。蛇をくわえてきた。とうちゃん、見てごらん。タマの顔はダリにそっくり」。主人は私の声を聞くなり仕事部屋に入り、乱暴に音をたてて襖を閉めきる。タマは仕事部屋の前にきちんと坐って蛇をくわえたまま待っている。蛇をくわえているから鳴いてしらせるわけにはゆかない。みせたいから開けてくれるまで黙って坐っている。「いいか。タマを入れちゃいかんぞ。絶対に開けるな。俺はイヤだからな。タマをどこかへつれてけ。蛇は遠くに棄ててこいよ」。主人は中から、急に元気のなくなった震え声で言う。
 私はタマの頭を撫でて「タマ、えらいね。遠くからせっせと持ってきたのね。大へんだったね。見せてくれてありがとさん」と言う。蛇をくわえたままの猫を風呂場に入れておく。
 食堂に落ちている髪の毛を掃除機で吸いとって掃除したあと風呂場に行くと、蛇は死んでいた。タマはまた外へ出てゆく。蛇を箸でつまんで犬の墓のところを掘って埋める。「もう大丈夫。埋めてしまったから」と私の顔が入るだけ襖をあけて報告した。
 夜 桜めし、おでん、漬物。

 12月14日(火)晴 風つよし
 11月27日から12月9日まで、主人入院。その前後一カ月半ほど、山にこられなかった。
 前九時東京を出る。


 昭和47年 (1972年)
 6月21日(水) うすぐもり
 主人山へ来るとすぐ「ひかりごけ」のオペラのテープを聴いていたら急に聞えなくなったので、買出しのついでに吉田の電気屋へ持って行ってみてもらう。やっぱり電池がなくなっていたので取り替える。取り替えてくれてから、電気屋のおじさんはスイッチを入れて、しばらく聴いてみて、首をかしげる。
「こりゃあ歌かなあ。何だ? バッテリーがわりいときに録音しただな。もう一度バッテリーを取り替えて録音すりゃあ、歌らしくなるで。もとの録音がわりいで」と、私に注意した。
 帰りがけに、カンナをわけに大岡家へ寄った。
「武田が来なくたってビール一本位飲んでゆけ」とすすめられて、私は玄関から上ってしまった。ビールを一本御馳走になった。大岡さんは、主人の病気のことを訊かれた。こんな風、と話すと「『富士』のとき酒飲みすぎたな。しばらく何にもしないで休めばいいさ。少しよくなったら、ほんとはアメリカかなんかに二人で行って来るといいんだがなあ」とおっしゃった。「もう少しよくなったら、アメリカの田舎にいこうかしら」と、私はアメリカの田舎のことも知らないのに答えた。「しかし武田はいいよ。年とったって、中国文学と仏教というてがあるからなあ」。大岡さんは慰めるように私に言われ、私も笑った。
 夕飯のあと、主人は急に「大岡のところへ行く」といいだした。私が、さっきビールを御馳走になって、こんな話をした、といったので、自分も行きたくなったらしい。猫を家の中によび入れて出かける。夕焼が少しして、気持のいい風が吹いている。白い月が出ている。また、ビールを御馳走になる。いろいろ、話をしているうちに大岡さんは主人をしげしげと見ながら、げらげら笑う。
「笑っちゃ悪いけど、おかしい。武田が糖尿病かあ。何だかおかしいなあ」。私もおかしくなって笑ってしまう。「俺だっておかしいや」と、主人も笑っている。
 デデは、あんまり我儘でうるさいから東京においてきた、とのこと。
  すっかり暗くなって帰る。とても楽しかった。月夜になった。庭をおりるのも明るい。ふざけながらおりる。


 昭和48年 (1973年)
 5月1日(火) くもりのち時々晴
 庭のけし畑には蕾が二本出た。
 着いてすぐ、主人も私も昼寝。
 昼 麦ごはん、こんにゃくとにんじんと椎茸の白和え、とりささみつけ焼、キャベツ酢漬、とろろ昆布のおつゆ、トマト。
 早めに昼食。そのあと、テラスで主人の頭を刈る。ついでにひげも剃る。
「今だから言うけど、歯なしのころは顔が剃りにくかった。唇がへっこんでるから剃り残しが出来て。口のところはひっぱったり、口の中に空気入れてもらったりして剃ってた。
いまは剃りいいよ。しわがなくなって」
「大岡のやつ、俺が歯を入れたときここにやってきて『お前、病気したら眼が澄みやがったな』なんて、みるなりいったぞ。しゃべっているうちに『お前、入歯したらワザとらしい顔になったな』なんて言いやがった」
「ほんとだ。そういわれればそうだ」。私は笑いだした。主人も笑った。 」(武田百合子「富士日記」中央公論社1977年(現在中公文庫))
関連記事
スポンサーサイト
2010.08.28 Sat l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top

コメント

 今から5~6年ほど前のことですが、武田百合子の愛読者だった私の連れ合いにせがまれて、この日記のかつての富士山荘があった場所まで夫婦で見学に行ったことを、この文章を読ませていただいているうちに思い出しました。

 連れ合いは、どこで調べたのか、それらしい住所を記したメモを取り出して、カーナビに設定すると、クルマは青葉インターから東名に乗って、富士スバルラインの入り口近くの(カーナビの言う)目的地にほどなく到着です。

 もう建物は取り壊されていることは、予め知ってはいたものの、五月の雑草が一面に生い茂り、「・・・人間の根源的な存在形態というものを、たえず考え続けて」(大岡昇平の武田泰淳評1963年)きた戦後文学者と彼の家族の、つかの間の、夢のあとさきを見てきました。

 閑静な別荘が遠くまで広がるその一角を眺めながら、その一瞬、不遜な考えが頭をよぎったのか、私の連れ合いは「でも、こんなにりっぱな所だと、結構高そうよね・・・」と独り言をつぶやいたりするのでした。

 が、早々に気をとりなおした私たち二人組は、ついでに富士山の五合目まで行ってみることにしたのですが、そこで雲海の絶景を堪能できたこともあり、それ以来、毎年このルートを走破することにしています。
2012.02.05 Sun l elnest. URL l 編集
elnest 様
とても良いコメントをいただき、楽しませていただいておきながら、お返事が遅れに遅れて申し訳ありません。
少し油断するとつい本来の筆無精の癖が出てしまいます。とこれは言いわけにもならない言いわけですね。すみません。
奥様は武田百合子の愛読者だとのこと、車の運転ができたり、車の便があったりすると、確かにあの山荘の周辺をゆっくり回ってみたいという気持ちになるように思います。
〉 もう建物は取り壊されていることは、予め知ってはいたものの、
武田山荘の取り壊しのことは娘の写真家・武田花さんの談話と一緒に新聞に載っているのを見たことがありますが、あれはもう5、6年以上も前のことになりますか! 5月の雑草が生い茂っていたそうですが、「富士日記」を読んでいると、山荘時代には庭一面にいろいろな花を植えていることが分かりましたね。誰かが野菜を植えてやると言って山荘にやって来たので、あまり沢山野菜の種を植えられて、花を抜かれたり、これから植える場所がなくなったりしたら困るというので、あわてて庭に出ていくという場面がありました。武田百合子の場合、そういうちょっとした場面でも無類の面白さ、ヴィヴィッドが発揮されていて感嘆します。
帰りに、富士山の五合目まで行かれて雲海の絶景を堪能されたそうですが、こちらも何よりでしたね。

先日、吉本隆明の逝去が報道されました。ここ10何年か、雑誌などでその発言を読んでガッカリすることが多かったせいだと思いますが、あまり喪失感などは感じなくて、むしろ武田山荘を見て来られたお話を聞かせていただいたり、それで武田百合子の文章を思い出したり、ついでに武田泰淳や大岡昇平や埴谷雄高のことが思い浮かんだりして、失われたものの大きさやかけがえのない良さなどを感じます。奥様によろしくお伝えくださいませ。
2012.03.20 Tue l yokoita. URL l 編集

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/94-caf842e0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。