QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
   

時々、夏目漱石はなぜ英文学を専攻したのだろう? という疑問というか、戸惑ったような声をきくことがある。もっともな疑問だと思われる。当ブログにも「なぜ英文学 漱石」という検索で訪れてくれた人がいるくらいなのだ。私にも本当のところはもちろん分からないのだが、「落第」という題の文章(漱石は大学予備門の2年の時だったか、腹膜炎を煩って試験が受けられず、落第の憂き目にあったのだ。)によると、漱石は、12、3歳で中学に入ったが、そこがおもしろくないので、2、3年で止めてしまい、二松学舎という学校に入ったそうである。どうやらここは漢学・漢文を教える学校だったようだが、その頃のことを漱石はこんなふうに書いている。

「元来僕は漢学が好(すき)で随分興味を有って漢籍は沢山読んだものである。今は英文学などをやって居るが、其頃は英語と来たら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした。兄が英語をやって居たから家では少し宛(ずつ)教えられたけれど、教える兄は癇癪持、教わる僕は大嫌いと来て居るから到底長く続く筈もなく、ナショナルの二位でお終いになって了ったが、考えて見ると漢籍許り読んでこの文明開化の世の中に漢学者になった処が仕方なし、別に之と云う目的があった訳でもなかったけれど、此儘で過ごすのは充(つま)らないと思う処から、兎に角大学へ入って何か勉強しようと決心した。」

あくまでも「落第」における言い分だが(漱石には自分のことについては何事も少し低めに言う癖があるように思えるので)、「何か勉強しようと決心した」漱石は、成立学舎という学校に一年間通ってそこで一生懸命英語を勉強したと、次のように述べている。

「入学して、殆んど一年許り一生懸命に英語を勉強した。ナショナルの二位しか読めないのが急に上の級へ入って、頭からスウヰントンの万国史などを読んだので、初めの中(うち)は少しも分らなかったが、其時は好(すき)な漢籍さえ一冊残らず売って了い夢中になって勉強したから、終(つい)にはだんだん分る様になって、其年(明治17年)の夏は運よく大学予備門へ入ることが出来た。」

これが英文学者・漱石の誕生につながっていくわけだが、ただ漱石は予備門時代の当初は建築家になろうと思っていたと書いている。その理由というのは、自分は変人である。元来変人だから、このままでは世の中に容れられない。しかし、職業を日常欠くべからざる必要な仕事をすれば、変人を改めることなく生きていくことができる。「此方が変人でも是非やって貰わなければならない仕事さえして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違いない。そうすれば飯の喰外れはないから安心だと云うのが、建築科を択んだ一つの理由。」だそうである。それともう一つは、もともと漱石は美術的なことが好きだったので、実用と共に建築を美術的にしてみようと思ったのだそうである。ところがそうはならなかった。これはよく知られたことだが、米山保三郎と云う友人が漱石に文学の道に進むよう進言したのだ。この米山という若くして亡くなった人物を漱石は大変尊敬していて(「我輩は猫である」にも「天然居士」として描いている)、1909(明治42)年に米山保三郎に関してこんな俳句を書いているそうだ。「空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月」)米山はおそらく漱石の文才の非凡を見抜いていたのだろう、下記のように言ったそうである。

「之は非常な秀才で哲学科に居たが、大分懇意にして居たので僕の建築科に居るのを見て切りに忠告して呉れた。僕は其頃ピラミッドでも建てる様な心算(つもり)で居たのであるが、米山は中々盛んなことを云うて、君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは迚も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き大作も出来るじゃないか。」と米山はこう云うのである。」

こう云われて見ると漱石は、成程そうだと思われるので、又決心を為直して、

「僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」

のだそうである。うーん……。時代の趨勢、風潮の影響が大きかったと思うが、ただこういうきっかけで、しかも英語で後世にも残るような大文学を書こうとして英文学に進んだのでは、後に漱石が「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」と述べるようになったというのも無理はないような気もする。しかし、進路の選択というのはたいていそういうものかも知れない。もちろん例外はいくらもあるだろうが、将来が茫漠としたものに映ることの多い若い時のことなのだから、案外こういうちょっとした偶然の契機が作用する場合が多いのではないだろうか。

しかし、偶然による進路の選択と言えば、漫画家&エッセイストの東海林さだお氏の「露文受験」の右に出るものはあまりないのではないだろうか。これには漱石も真っ青、とても勝ち目はないと思う。


   

では、『逆上の露文入学』という題の文章を「ショージ君の青春記」(文春文庫1980年)から次に引用する。

「 長い長い一年だった。(引用者注:ショージくんは浪人したのである)
(略)
 多賀子の噂を、一度だけ風の便りに聞いた。
 暑い夏の陽盛りに、日傘をさして歩いていた、というただそれだけのものだった。
 それだけの報告でも、ぼくには生々しかった。
 暑い陽ざしの中の、日傘の下の多賀子の汗ばんだ顔が鮮やかに浮かんでくるのだった。
 二年目は、目標を早慶二枚に絞った。
 二校には絞ったが、学部はたくさん受けた。
 早稲田の政経(新聞)、法、教育、商、文学部、慶応の経、法、商、文学部の合計九学部を受けた。
 この九つの志望学部を見て、人は、いったいこの男は将来なにになろうとしているのか判断に苦しむと思う。
 新聞記者になろうとしているようにも思えるし、普通のサラリーマンになろうとしているようにも見える。教師になろうとしているようにも思えるし作家とも考えられる。
 この九つの志望学部から、「漫画家」という正解を引き出せる人はまずいまい。
 だが、この男の志望は、すでに漫画家ということでちゃんと決まっていたのである。
 要するに大学ならばどこでもよかったのである。
 それが証拠に、早稲田の文学部は、最初、「美術史」を受けるつもりだった。
 それが終局的には露文を受験することになってしまうのである。
 渡画家志望の人間が、なぜ露文などに入ってしまったのか。
 浸画とロシア語と、いったいどういう関係があるのか。
 もともとなんの関係もないのである。
 ただ入学願書受付の窓口が、「露文」と「美術史」と隣り合わせだった、ということがそもそもの発端なのである。
 漫画家志望の人間が、「美術史」を学ぼうとする心情は、ある程度理解できると思う。
 ぼくは受験票にも、ちゃんと「美術史」と書き、受験料二千五百円ナリを握りしめて、受付の行列に神妙に並んでいた。
 あと自分の番まで、二、三人目というところでふと隣りの行列を見た。
 これがいけなかった。
 隣りは露文である。
 ここで急に迷ってしまったのである。
 もともと、大学ならどこでもいい、と思っている人間である。
(入学してから女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか)
 そういう考えが、モクモクと胸中に湧きあがってきた。
 女のコと話をする場合でも、
 「たとえば写楽の浮世絵は……」
 などとしゃべるより、
「たとえばドストエフスキーの『罪と罰』の中の……」
 などとしゃべるほうが、ずっと格好がよいのではなかろうか。
 大学受験は、いわばその人の人生を決定する大事な問題である。
 なによりも、まず自分の将来、適性などを第一の基準にして決定しなければならないはずである。
 それなのにぼくは、「女のコとつき合うときのモテ具合」を第一の基準にして考えてしまったのである。
 ぼくの受付の番まであと二、三人である。
 決断の時間はあと二、三分しかない。
 人生の重大事を決定するための時間としては、二、三分という時間は決して充分な時間とはいえない。
 また、人生の重大事を決定するときは、いつもより冷静な頭脳と、明智な判断力が必要である。
 なのにぼくは、こういう状況に陥ると、いつも逆上するのをつねとしていた。
 むろん、このときも、例にたがわず逆上したのである。
 事柄の重大さに比例して、逆上の度合いもまた激しいものがあった。
 受付をやっていた人も、きっと驚いたに違いない。
 自分のところの行列に、それまで神妙に並んでいた男が、突如血相を変えて、隣りの列に移ってしまったのだから。
 ぼくはこの「逆上による決断」によって、つねに決断を下しつつ、今日までを生きしてきた。
 その決断がよかろうはずがない。
 よい結果を生むはずがないのである。
 この、人生の重大事を決定するときには、いつも逆上する、という習性は、今もって直らない。
 たとえば靴下一足買いに行っても、逆上なしでは靴下を購入することができないのである。
 ぼくの欲しいのは、たった一足の靴下である。
 なのにデパートでは、何百、何千という靴下が、ぼくを待ち受けているのである。
 元来靴下などというものは、気楽に買うものである。
 靴下一足の購入で、その人の人生が変わるわけでなし、あるいは一足の靴下のために生計に破綻綻をきたすというものでもない。
 むろんぼくも、気楽に靴下売場に赴くわけである。
 気楽に赴いたにもかかわらず、ぼくの目前には、何千の靴下が展開されているのである。
 最初茶色の無地の一足が目につく。
(靴下の件が延々と何ページも続くので、略)
 靴下一足でこれであるから、いわんや、背広などという大物を購入するときは、その一週間前ぐらいから、ナワトビ、ボデービルなどをして体を鍛え、座禅などもして、心の落ちつきをはかり、しかるのちにデパートへ赴く、というような、大がかりな準備が必要になるのである。
 さて。
 九学部の受験は九日間たて続けに行なわれた。
 そういうふうにスケジュールができていたのである。
 合格発表もまた、九日間たて続けに行なわれた。
 ぼくは毎日毎日発表を見に行った。
 毎日毎日ぼくは落ちていた。
 大学受験は、一つだけ落ちてもかなりガックリくるものであるが、それが八日間毎日毎日落ちているのである。
九日間を耐え抜いたその強靭な精神力をぼくは今にして思う。
 九日目にやっとぼくの受験番号が、掲示板の片隅に、ひっそりとひかえめに、つつましく出ていた。
 その番号は、刀折れ、矢尽きてポロポロになった兵士のように、痛々しく感じられた。
「合格した」という喜びより、
 これで助かった」という感じのほうが強かった。
 それからまた、
「なあんだ」というような感じもした。
「なあんだ、ちゃんと受かったじゃないか」
 ぽくは、大学へ入りさえすれば、ただちにバラ色の青春が展開するのだ、と思い込んでいた。
 そのことだけを思って浪人生活を耐え抜いたといってもよい。
「大学へ入りさえすれば」ただちに恋人ができ、ハイキングでランランということになり、スキーでランランということになり、ダンスパーティでランランということになり、とにかく、来る日も来る日もランララランランと口ずさまずにはいられない日々が到来するのだと堅く信じていた。
 だが、実際はランランの毎日ではなかった。
(略)
 ロシア語の授業は、まるでおもしろくなかった。
 もともと、女のコにモテるために入った露文であったから、勉強に身が入るはずがなかった。
 第一、露文科に入るとロシア語を勉強させられるということをまるで知らなかったのである。
 ロシア語だけが印刷された教科書を、ドッサリ買わされて呆然となった。
 表紙がロシア語であり、目次もまたロシア語であり、そのあとずーっとおしまいのページまで全部ロシア語であった。日本語は一字たりとも出てこなかった。
 ロシア語は、それまで一度も見たことがない不思議な文字である。
「これを一体どうしろというのだ」
 ぼくは怒りさえ感じた。
 これが書物である、とは到底考えられなかった。
 不思議な模様がビッシリ描き込まれた、紙で作られた玩具であるように思えた。
 むろんこれは玩具ではなく、この不思議な模様も、辞書とか文法書などをあやつって調べていくと、ちゃんと解読できるということであった。
 しかも一週間の授業のうちの半分以上が、この不思議な模様との対決に費されるのであった。
(こんなことをこれから四年聞、毎日毎日やっていかなくてはならないのか)
 ぼくは再び呆然となった。
 ぼくは憤慨さえした。
 露文は、どういうわけか左翼系の学生が多く、授業が始まる前には、いつもなにやらそういった内容の討論会みたいなものが開かれるのがつねだった。ぼくはいつも教室のうしろのほうでただ呆然としているより他はなかった。
 そして授業が始まると、ロシア語だらけの本を眺めて、また呆然としていた。
 入学してまもなくのメーデーに、露文専修一年も魁単位で参加した。
 これにもぼくはただ呆然とついていった。
 露文科に入って、ぼくは、ただただ毎日呆然としていたのである。
 赤いノポリやら横幕やらを押し立てて、構内を一周したあと、われわれは神宮外苑を目指して 出ていった。
 警官隊の一隊に遭遇すると、なぜか興奮し突っかかっていったりした。
 そして、神宮外苑に到着すると、記念掃影をして、流れ解散となった。
 今、その写真を取り出してみると、学生服に角帽が半分以上を占めているのである。
 今にして思えば、ノンビリしたデモであった。
 なにしろデモに行って記念撮影をしてくるのであるから、多少過激な運動を伴うハイキングのようなものだったのかもしれない。
 露文のクラスは総勢三十数名で女性が五人ばかりだったように思う。
 ここでもぼくは女性に恵まれなかったのである。
 級友たちは、いつも文学論やら、マルクスやらレーニンやら毛沢東やらを論じており、ぼくはただ呆然とそれを聞いているより他はなかった。
 ぼくは完全な異端者であった。
 当然、友人はできなかった。 」


以上で引用終わり。ショージ君は「友人はできなかった。」と書いているが、苦悩の大学生活一年間を過ごした後、「漫画研究会」なるものが学校に存在することを伝え聞き、そこに入って、園山俊二やしとうきねおや福地泡介など大勢の仲間を得ることができたのだ。東海林さだおのエッセイのうちベスト3に入るほど好きな文章なので、一部抜粋して載せてみた。漱石の文章とのつながりはそんなに(もしかして、全然?)なかったような気もするが、楽しんで読んでいただけるかも?
関連記事
スポンサーサイト
2010.09.29 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/98-583fa833
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。