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被告人の父母の身上、経歴を自らの手で書き換え、被告人および事件の印象操作を行なう裁判官

一審判決文には、事件自体に関する事実認定の矛盾や疑問だけではなく、かりにも裁判官という職業に従事している以上、まず間違えるはずがないと思われる被告人の「身上、経歴等」の項目においてすでに見過ごすことのできない大きな誤りが見られる。
判決はまず「主文」で「被告人両名をそれぞれ死刑に処する。」と宣告し、次に「理由」と続くのだが、その第一章は、「背景事情」であり、「一 被告人の身上、経歴等」である。
関根・風間の二人の被告人のうち、関根被告の身上に関する記載は、単に出生地の県名・町名が記されているだけで、他には何の記載もない。だが、風間被告については、両親-特に父親の職歴などの経歴が以下のように述べられている。

「なお、被告人風間の父母は、昭和53年ころ土地家屋調査士をしていたMIの養子となってM姓となるとともに熊谷市万平町のM夫婦の自宅に同居し、父Hが養父の仕事を引き継ぐ形で土地家屋調査士として働くようになったが、その後しばらくしてM夫婦が相次いで病死したため、HとY子が右居宅およびその敷地、同市佐谷田の土地建物等を相続取得した。」(『一審判決文』p4)

判決文のなかで風間被告の父母の経歴が言及されたのには、たしかに相応の理由がある。風間被告の実家の土地・家屋が3件の事件のうち2度目に発生したE・W事件の遠因となったという事情が存在するからだ。だから判決文が、事件とは無関係の両親の経歴に言及したことは、もしその記述が正確であるならば、一応の理解はできる。ところが、上記の記載事実はことごとく誤りなのである。裁判所は法廷に証拠も証言も何ら提示されていない事柄をなぜか勝手に事実として認定しているのだ。
まず風間被告の父母の養子縁組の時期であるが、判決文はこれを「昭和53年ころ」と記載しているが、事実は「昭和52年1月26日」である。このことは、裁判で証拠採用されている登記簿ではっきりしている。また検察官も論告で「なお、被告人風間の両親は、同(昭和)52年1月にMI夫婦と養子縁組したことから、M姓となっている。」と正確に記している。裁判所はこんな簡単なことさえ正確に記述していないのだが、問題は、「昭和52年1月26日」を「昭和53年ころ」と判決文に書き記すということは、どういうことなのか、単なる記憶違い、単なる誤記、ということですませられることかどうかということである。養子縁組の日時だけではない。上記の一かたまりの認定全体が間違っているのだ。このような過失が現実に生じうるだろうか? 判決文作成にあたっては当然、登記簿、法廷証言などの証拠書類は身辺に揃えられているはずである。裁判官は3人もいる。事務官もいるだろう。このような記述においては、事の性質上、正確に記述することのほうが断然たやすく、誤ることははるかに難しいのではないだろうか。

この認定に関する養子縁組以外の過誤については、風間被告の母・Y子さんの一審法廷における証言を見ることで確認したい。以下に、第95回 平成12年(2000年)2月28日の速記録から転載する。

「(MIの夫婦養子をした)当時の健康状態はどうだったんでしょう。
  「病院に出たり入ったりの状態でした。」
他方、養母さんのUさんは、どういう状態だったんですか。
  「ぼけてました。痴呆症というんでしょうか、今の。」
養子になられて、生活状態というのはどうだったんですか。
  「前より苦しくなりました。」
どういうことで苦しくなったんですか。
  「おじいちゃんの入院費が高かったものですから。」
養子に入られた当時、もうIさんは、土地家屋調査士の仕事はやっていなかった状態ですか。
  「はい、やってません。もう体が弱くて、病院出たり入ったりでした。」
ちょっと質問もう一度しますね。消防署を辞めたのは突然で。
  「はい、商売始めたのもその引続きというか、商売始めたくて消防署を辞めたものですから、すぐもうその前に、自分で事務所借りてまして。」
自分で最初から独立してやった。
  「はい。」
養子縁組後に、証人御夫婦はどこに住まわれたんですか。
  「万平町というとこです。」
それから、養父母さんはどこに住まわれていたんですか。
  「佐谷田というとこです。」
(I死亡は)何年ごろか記憶にありますか。
  「(昭和)50…5年でしょうか。」
(養母死亡は)何年ぐらいか記憶ありますか。
  「はい、2年後ですから、57年だと思います。」
養父母さんが亡くなられて、当然相続という問題が起こったと思いますが、相続はされましたね。
  「はい。」
どういう相続財産があったか記憶にありますか。
  「その佐谷田に、土地と家屋がありました。」
佐谷田の土地と家屋、それが相続財産ですか。
  「はい。」
それだけですか。
  「はい。」
(大原の土地と建物)これは相続とは関係ないものですね。
  「はい、そうです。」
(万吉の土地と建物)これも、御主人が働いたお金で取得したものと。
  「はい、そうです。」
それから、須賀広という地名にある土地、最終的には処分されてるんですが、これも御主人が最初に取得したものなんですか。
  「はい、そうです。」
それを、御主人が亡くなった後、証人が相続したと。
 「はい」
これも(養父母の)相続と関係ないですね。
 「はい。」
それから、ちょっと地名、地番が分からないんですが、関係者の証言、供述の中に出てくる、産業廃棄物を不法投棄された土地というのがあるんですが、それは御存じですか。
  「はい。」
これも、もともとは、証人の夫のHさんが取得したものですか。
  「はい、そうです。」
 ところで、博子さんが生まれたころのことですが、どちらに住まわれていました。
  「熊谷市本町というとこにいました。」
当時は持家ですか、借家ですか。
  「借家でした。」
その後、その本町の借家はどうなりましたか。
  「後で一生懸命働いて、買い取りました。」
いつごろか記憶にありますか。
  「そうですね、K子(妹)が生まれる(昭和38年)少し前です。」
(夫Hが)どこかに通ってるというようなことはありませんでしたか。
  「はい、熊谷に立正大学というのができまして、大学ができたものですから、そこの夜間に通ってました。」
立正大学以外に、通ったところはありませんでしたか。
  「早稲田にも行きました。」
早稲田大学ですか。
 「はい。」
それも夜間部ですか。
 「はい、そうです。勤めながらですから。」
  「その当時は、何のためにこんなに勉強するのかなと思ってましたけど、後になりまして、土地家屋調査士という免許取りまして商売始めたものですから、そのために一生懸命勉強したんだなと思いました。

上記の証言および証拠採用された各種登記簿と照らし合わせると、下記の事実が確認できる。
① 夫婦養子になったのは昭和52年1月26日。
② 万平町に同居はしていない。
③ 父Hは養父の仕事を引き継ぐ形で土地家屋調査士として働くようになったのではない。苦学して独力で土地家屋調査士の資格を取り、養父とは無関係に独立して仕事をしていた。
④ 養父Iが死亡したのは昭和55年7月、養母Uの死亡は昭和57年7月であり、養子縁組後、すぐに養父母が死亡したわけではない。風間被告の両親にとっては養父母の介護に従事する日々が存在した。
⑤ 養父母が病死したため、佐谷田の土地建物等を相続取得したのではなく、その生前から父母の名義として登記されていた。
⑥ 大原の土地と建物、万吉の土地と建物、須賀広の土地、産業廃棄物を不法投棄されたという揚井の土地、熊谷市本町の家屋など、財産のほとんどは父親の働きによって取得したものである。

風間被告は控訴趣意書で「原判決が与えるイメージ」と題して、裁判所のこの認定に対して次のように反論・抗議している。

「証拠として採用しております、登記簿謄本や証言、そして論告といったものをきちんと検証していただき、判決書を作成していただけたなら、上記事実は誤りようのないもの、と思われます。
 又、被告人の身上経歴に何故父や母の身上経歴が必要なのでございましょうか。しかも、この様に捏造して判示いたしますのは、公正な裁判官の職務を甚だ逸脱した悪意に満ちた行為ではないでしょうか。
 この判示によって傍聴人達は、養父母達の死期間近になってから養子縁組し、入り込み、数々の土地・建物を乗っ取ってしまったごとく印象を持ったことでありましょう。
 これにより、本来、関根やEらによる数々の財産乗っ取り計画の事実により、被害者の立場である被告人の状態も、この判示を聞いた人から見れば、元々がただで手に入れたものだから、と思えることでありましょう。更には、ただで苦労をせず取得したものへの執着の為、本件殺害に及んだとのイメージを持たれるかも知れません。
 いや、亡き父が汗水流し取得してきた財産ではない、と故意に捏造作文したことは、被告人に対する被害者像を薄れさせ、同情が集まることを防ぐべく、不実の判示工作をしたのかもしれません。」(風間博子『控訴趣意書』p266)

「傍聴人達は、養父母達の死期間近になってから養子縁組し、入り込み、数々の土地・建物を乗っ取ってしまったごとく印象を持ったことでありましょう。」「ただで苦労をせず取得したものへの執着」「亡き父が汗水流し取得してきた財産ではない」というイメージをこの判決文が広く社会に、人々の意識に植え付けるであろうという風間被告の危惧も嘆きも現実のものになっていると思われる。たとえば、『埼玉愛犬家連続殺人事件』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E6%84%9B%E7%8A%AC%E5%AE%B6%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6には、
「Y子(注・風間被告のこと。以下同)の実家が資産家[1]であることから、X(注・関根被告のこと。以下同)が財産目当てに結婚したとも言われている。」との文面があり、その脚注[1] には「正確には、Y子の両親が資産家夫婦と養子縁組していたことによる。XとY子が結婚した時には、資産家夫婦やY子の父親は既に他界しており、Y子の母親が遺産を相続していた」との誤情報が記載されている。

かりに裁判官が「単なる誤記である」とか「捏造の意図はなかった」と弁明したとしても、現実に判決文はこの記事のような現象、結果を生み出しているのである。そもそもこのような誤認定につながる情報を裁判官はどこから得たのだろう。法廷に提出された謄本などの公文書にも、証言にも現れていない、そして検察官でさえこのような主張はしていないのだから、裁判官が自らの頭脳で作り出した、即ち「捏造」したという以外に解釈のしようがないように思える。とりわけ、「昭和52年1月26日」をわざわざ「昭和53年ころ」と記述していることには、背筋が冷たくなるほどの思惑や悪意を感じないわけにはいかない。「父Hが養父の仕事を引き継ぐ形で土地家屋調査士として働くようになったが、その後しばらくしてM夫婦が相次いで病死した…」という事実認定が虚偽ならば、この自らの虚偽認定を糊塗して正当なものに見せるために、できるだけ養子縁組の日付を遅くして養父母の死去との間隔を縮めたかったのではないか。「養父母達の死期間近になってから養子縁組し」という風間被告が憤っていう、まさにそのイメージを作り出すために。…これが裁判官のやることだろうか? またこれが「裁判」といえるような代物だろうか?

裁判官のこのような行為は、対象の被告人が冤罪であろうと、または有実であろうと、そのことには一切関わりなく、その被告人に精神が破壊してもおかしくないほどの絶望的打撃を与えるのではないだろうか。どんな人間にとってもこのような悪意は耐えがたいものにちがいないが、まして被告人の場合、その多くは道に踏み迷ったからこそこの場にいるケースが多いのではないかと思われるから、なおさらそうではないかと想像し、推測する。

事件に関する事実認定ならば、第三者である法廷の傍聴人も、また外にいて判決文を読む者も、検察官の論告や弁護人の弁論などと照らし合わせた上で、判決文の検証は可能である。だが、事件とは無関係の被告人の身上、経歴については、裁判官の認定を信用するしかない。そのようなことに第三者の視線がどうしていくだろうか。そんな項目でまさか裁判官が虚偽を述べているとは誰も考えないのである。今回も、もし風間被告が「控訴趣意書」で強い抗議の意向を示さなかったならば、私なども全く気づかずに通りすぎていたに違いない。そして、『ウィキペディア』の、「実家は資産家、でもその資産は両親が資産家夫婦と養子縁組して得たもの」といわんばかりの記述をそのまま意識に刻みこんでいた可能性が高い。だが、納税者の税金によって禄を食む公務員である裁判官としては、このような行為は納税者・市民に対する重大な背信行為でもあるだろう。

何度も書いたことだが、風間被告が殺害に関与したという物的証拠は何もない。共犯者の供述調書だけが頼みの綱なのである。そのことを百も承知の裁判官は、それでもどうにかして風間被告が殺害に関与し、実行したという認定に持ち込むべく、この虚偽記載は、そのための周到な準備の一環だったのではないかということがどうしても疑われる。
2009.07.04 Sat l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨夜(6月23日)のニュースで関根元被告と風間博子被告の「判決訂正申し立て」が前日(22日)付で棄却されたことを知った。『産経ニュース』によると、

「愛犬家殺人事件」2被告の死刑が確定 判決訂正申し立てを棄却
2009.6.23 18:35
 埼玉県で平成5年、愛犬家ら4人が相次いで殺害された事件で、殺人や死体損壊などの罪に問われ、1、2審で死刑判決を受け今月5日、上告が棄却された元犬猫繁殖業、関根元被告(67)と元妻、風間博子被告(52)の判決訂正申し立てについて、最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)は、「判決内容に誤りのあることを発見しない」などとして、申し立てを棄却する決定をした。関根、風間両被告の死刑が確定した。決定は22日付。」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090623/trl0906231835015-n1.htm

とのことだが、こつこつとではあるが裁判記録を読み進めている身としては、裁判長の「判決内容に誤りのあることを発見しない」という上記の発言に、今更のように驚かされる。
何度も述べてきたが、風間被告が被害者の殺害に関与したという証拠はただの一つもない。裁判所が辛うじて証拠としているのは取調べ段階におけるY供述だが、そのY氏は自らの刑が実刑3年で確定すると、以降は「風間は殺害に関与していない」と一貫して明言している。Y氏はおそらくは自らの極刑を逃れるためだったろう、風間被告と関根被告の殺害計画・実行の共謀関係を調書にし、風間被告に死刑をもたらした人物だが、実はその最中でも、E・W事件に関する取調べ中、「仮に関根からE殺害を持ちかけられても、博子という人間は、間違いなく反対するし、絶対に加担しないと思う。実際、E殺害計画は知らなかっただろう。」と語っている。Y氏は二審の公判廷で風間被告について「人を殺せる人かどうか顔を見れば分かるでしょう」と述べているが、Y氏が内心もっている風間被告の人物像がどのようなものであるかが、この二つの証言に自ずと現れているのではないかと思う。またこれは一人Y氏だけの見方ではない。いずれ考察してみるつもりだが 関根・風間の両被告を知る法廷証言者のほぼ全員の見解と共通するものでもあるのだ。
だが、風間被告への殺害行為認定に疑念をもたざるをえないのは、決してY氏のこの証言だけによるのではない。むしろこのほうがずっと重大なのだが、風間被告に関する裁判所の事実認定が、ことごとく不合理・不自然に見えるのである。こんな不可解な認定で有罪とされ、死刑を宣告されたのでは、たまったものではない。これは多少でも我が身に当てはめてみれば、誰にしたって同じように感じ、考えるはずである。
風間被告は、『上告趣意書』もA4版で300枚超の大部を手書きしているが、『控訴趣意書』はなんと1000枚を優に超え、1200枚近くにまで達している。内容は、判決の認定を詳細に検討・批判したきわめて論理的な主張であり、同時に切々と自らの潔白を訴えた必死な文章でもある。
その『控訴趣意書』から以下に一部抜粋して掲載する。風間被告は大変美しい字を書く人で、これをそのまま掲載できればいいのだが、上手にアップする方法を習得していないため、活字に変換しなければならないのが残念である。

「(三) 検察官の被告人を貶めようとした事実
言うまでもなく検察官は、被告人の捜査段階で聴取された全供述調書及び上申書の内容を全て把握し、さらに被告人がいついかなる時期に、何故に、そのような供述調書及び上申書が作成されたかについて、被告人の法廷供述を全て原審公判廷において聴取しているのであります。
 被告人はY崎供述と一致するよう虚偽の自白を強要する過酷な取調べを受けておりました。
 当初は、逮捕前の関根の「自分は大丈夫。証拠を残してないから、逮捕されても釈放される」との自信満々の態度から、万が一、関根が釈放になった時の母親や子供達への仕打が心配であり、関根に対する恐怖から関根が関与する部分の供述は行なえませんでした。
 しかし漸くこれを脱し、K事件について、平成7年2月8日の上申書で、関根関与部分の供述を一部訂正した以外は一貫して真実を述べ、事件に直接係わる事項についても公判供述と異ならない供述をなし、その余の事項についても公判供述とほぼ同内容の供述を行ってまいりました。
 取調官から、関根自身が自らの手で4人の被害者を殺害したと認める供述をしたこと。Y供述により証拠は揃っているということ。それによって関根も裁判をして判決が出るまでは釈放なんてことにはならない。等教えられました。
 そして、その事を裏付けるかのように、平成7年1月26日の最初の起訴(K事件の死体損壊・遺棄)があったのです。
 逮捕・拘禁・取調べ等に関してまるで無知であった私でも、これで家族も関根から解放された、とやっとのことで会得することが出来たのです。
 取調べの過程で、私が作成した調書は開示されたものだけでも、員面調書が合計25通、検面調書が合計11通(弁解録取書は4通)、そして上申書は5通に及んでいます。
 検察官がそのうち乙号証として請求し、採用されたのは検面調書はわずかに 2通
     乙77号証   平成7年3月10日 作成
     乙78号証   平成7年4月 2日 作成
員面調書においては 4通
     乙72号証   平成7年1月11日 作成
     乙74号証   平成7年1月19日 作成
     乙75号証   平成7年1月20日 作成
     乙76号証   平成7年2月22日 作成
そして  乙73号証   平成7年1月 5日 作成
の弁解録取書 一通のみで上申書は全く請求されておりません。
上記の事実は、まさに私がいかに取調段階と公判段階において一貫した供述をなしたかを如実に物語っていることを示しております。
 本件の誤った読み筋をなにがなんでも死守するため、供述が一貫している証拠があるのに、都合の悪い部分は、それを隠し、虚偽報告を検察官はしているのです。
(四) 検察官が故意に証拠隠匿し裁判官までも貶めた事実
 検察官は、被告人の2月22日(乙76号証)2月23日、2月24日の連続する員面調書の存在について気づいていたからこそ、都合のいい所取りで2月22日のみ証拠請求しました。
 そして被告人が供述を「転々と変遷」していることを際立たせて見せる意向の元に、乙76号証(2月22日作成員面調書)の次に 乙77号証の証拠請求をし、裁判所に採用させました。
 これによって裁判官に、被告人がいかにも供述を転々と変遷させているよう受け取らせようと細工をしたのです。
 捜査当局についても、取調官のこれら調書の聴取方法をみれば明らかなように、同日に聴取した内容を故意に途中で切り、別々の調書として作成し、この部分を被告人を貶めるべく利用出来るよう工夫しております。
 しかし流石に検察もこれを論告において追及したらいかにも言いがかりとなると思ったのか、多少の常識を持って、乙76号証以外の調書を隠匿し、虚偽報告によって被告人が法廷で俄かに変遷したごとく事実を偽り、信用性を落としめようとする職権濫用のみにしていました。
 しかるに原審裁判官は、違法な検察や捜査当局の手際に見事まやかされてしまいました。
 又、原審では被告人も弁護人もまさかそこまで検察官や警察官が一体となり、刑法を犯す如き不正をするとは思いもよらず見過ごしてしまいました。
 無実証拠たる供述調書等の物証を隠し、このような違法な駆け引きにより、無実の者を死刑に追い遺り、絶望の淵に立たせてよろしいのでしょうか。
 真実と異なる検察官や捜査官の功名心を満たす為に虚偽の事実を認定され、死刑にされてしまうのでしょうか。
 言葉に尽せぬ憤りと何ともしがたい恐怖に怯えるばかりの毎日であります。歪められての事実認定での死刑は遣る瀬ないです。
 原審のような駈け引きや騙し合いでの真実ではなく、どうか趣意書に後述し、示させていただきます、関係各証拠、生の目撃証言等を精査頂き、正義の御検証をよろしくお願い申し上げます。」(風間博子『控訴趣意書』p46~48)
2009.06.24 Wed l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (3) トラックバック (0) l top
一連の事件のうち最初に発生した佐谷田車庫における「Kさん殺害事件」(93年(平成5年)4月20日)について、重要と思われる点をY氏の供述を基に再度検討してみたい。判決文の認定はこうである。

「K事件当日に「万吉犬舎に行き、犬の世話などをしていたところ、午後5時過ぎころ、関根が『車庫まで行ってくれ。』というので、午後5時半ころミラージュに関根を乗せて佐谷田の車庫に行ったが、関根はその時初めて『Kと会うんだ。』と言った。関根は、車庫内に置かれていたダッジバンの後部座席に座り、『お前も中に入れ。』と言うので、いつものようにダッジバンの運転席に座った。関根とダッジバンの中で雑談していると、それから30分位経った午後6時ころKが車(アウディ)で来た。すると関根は、Kにアウディを車庫の中に入れさせ、外で少し立ち話をした後、Kと一緒にダッジバンの後部座席に乗り込んで来て、並んで座った。関根は、Kに『顔色が悪いけど大丈夫なの。デルカップや栄養ドリンク剤を呑んで元気出して、またソープランドに行こうか。』などと言って陶陶酒のデルカップや栄養ドリンク剤を勧めており、Kは『これは結構口当たりが良いですね。』などと言っていた。Kが来て5分位経ったころに、関根』が自分に陶陶酒(関根は『梅酒』と呼んでいた。)を買って来いと言い、またガソリンがなければ給油もして来るように指示したので、それに従ってミラージュで出かけ、アフリカケンネルでいつも使っているガソリンスタンド(N工業の西熊谷給油所)で給油し、また陶陶酒も買って帰って来た。外出していた時間は40分位ではないかと思う。」(『一審判決文』p201~202)

上記のように判決文では、①アウディでやってきたKさんと関根被告のダッジバン内での会話は、一緒にソープランドに行く話(注:前日、Kさん・関根被告・Y氏は他のもう一人の友人も交えてソープランドに行き、帰りに寿司店にも寄っている)や陶陶酒のことなどで、険悪な雰囲気はなかった、②Y氏が関根被告から陶陶酒を買ってくるように、ついでに給油もしてくるように言われたのは、Kさんの車庫到着後5分程経過してからだった、と認定されている。
ここで注意したいのは、この供述ができ上がるまでには、Y供述に多くの変遷があったということだ。

○平成6年12月12日付員面調書(甲第537号証)
被告人関根とKはダッジの後部座席で梅酒のワンカップを飲みながら、関根がKに売りつけたローデシアン・リッジバッグという犬の売買代金の返済話をしていた折、被告人関根から「梅酒を買って来い」等の用事を言い付けられたので、その場を30分位離れた。
 ↓
○同年12月17日付同(甲第541号証)
被告人関根とKの話は、被告人関根のごく一般的な話から、車をやる話や犬の話に人っていった。/被告人関根とKの話は、結果的には被告人関根が「判った、金は返す」という話にまとまったようだった。金額については覚えていないが、けんかになりそうな感じではなく、普通の会話でKも納得していた雰囲気だった。/被告人関根とKの話が15~20位続いた後、被告人関根から梅酒を買ってくるように言われ、ダッジからおりて外のミラージュに乗って酒屋に向かった。
 ↓
○同年12月28日付同(甲第548号証)
Yは、Kが車庫に来て被告人関根との話し合いが始まり、10分位で被告人関根から買物の用事を言いつけられた。/Yは二人を残して車庫から出、買い物をしたり電話をかけたりの用事を済ませて車庫に戻ったが、その時間は30分程度であった。
 ↓
○平成7年1月10日付同(甲第553号証)
被告人関根から陶々酒のデルカップを買いに行くように言われた際、被告人関根から「車のガソリンは入っているか」と聞かれ、Yが「半分位です」と返事をすると被告人関根から「ついでにガソリンを入れて来い」と言われた。/Yは最初に酒屋に行き、そこで女友達に電話をかけ、給油に向かった。
 ↓
○同年1月24日付同(甲第564号証)
車庫でKと顔を合わせたのが午後6時30分だとすると、その4~5分過ぎには車庫から被告人関根の命令で出掛けている。/車庫を出た後、まずガソリンスタンドで給油し、その後車庫近くの酒屋で陶々酒デルカップを買い、酒屋前の公衆電話でN子(女友達)に電話している。(弁護人『控訴趣意書』より抜粋)

上記を見ると、最初の供述では、Y氏が車庫を離れたのは、Kさん到着後15~20分程経ったころだったのが、そのうち10分後ということになり、最終的には5分後というようにだんだん時間が短縮されていっている。さらに、関根被告とKさんの会話の内容も変化している。Kさん殺害のそもそもの動機は、犬売買のキャンセル話のもつれによるものだが、当初の調書では、車内でその話が交わされたとされていたのに、最終的にはその話題は全然出なかったことになってしまった。これについて弁護人はこう述べている。

「特に指摘しなければならないのは、佐谷田車庫に到着後の、Kと被告人関根の会話内容及び時間が、全く異なっていることである。/すなわち、甲第541号証では、被告人関根とKとの間で車をやる話や犬の話がなされ、その結果被告人関根が「判った、金は返す」ということに話がまとまったようだと述べられ、その会話の時間も15~20分であったというのである。/しかるに検面調書甲第478号証においては、会話内容から車をやる話や犬の話は抜け落ちて、梅酒デルカップを飲んで「顔色悪いけど大丈夫なの」等の話が被告人関根からなされただけになってしまい、経過時間自体も、K到着からYが車庫を出るまで約5分間と著しく短縮されているのである。」(『一審弁論要旨』p419)

Y供述の変遷が著しいのは車庫内の様子についてだけではない。車庫を出た後の自分の行動に関する供述も一貫していない。一審弁護人によると、「買い物と電話及び給油の順序も調書ごとに異なり、甲第481号証(注:検面調書)にいたって、どちらが先だかわからないと述べている。」。
取調べの当初、Y氏は自分がガソリンスタンドで給油をしたことを思い出せなかったようだ。陶々酒の買い物のほうが印象に残ったようで、給油の話が出てくるのは、甲第553号証にいたってからである。捜査過程で、N工業ガソリンスタンドでY氏が乗るミラージュの給油伝票が見つかったのだ。受領書の刻印は18時34分であった。
一方、捜査では、Kさんが退社前に社内の警報装置をセットしていたことも判明した。この時間は18時5分である。Y氏が18時34分にガソリンを給油し、Kさんが18時5分に勤務先の警報装置をセットしたという客観的証拠が出現したことによって、重大な問題が発生した。はたしてY氏が佐谷田車庫でKさんを迎え入れ、その場で関根氏との5分程度の会話を聞くことは可能であったか、言い替えれば、Kさんの車庫到着時に、Y氏は本人が証言するごとく、そこにいたのか、いることができたのか、という問題である。もしこれが不可能だとしたら、Y供述の信憑性および検察官立証の筋書きの真実性・正当性は根底から吹き飛んでしまう。一審弁護人は次のように述べている。

「ところで、本項冒頭で指摘した通り、佐谷田車庫において被告人関根と会話する元気なKの姿を現認することは、Yが被告人関根の脅迫に従って、死体の運搬等をせざるをえなかったことの理由として極めて重要であるが、Yがその後被告人関根の指示に従って車庫を離れ、戻った時に死体を見たという点も同様に極めて重要である。
なぜなら、このように供述することによって、YはKが殺害された状況、殺害手段を知らなかったといってすますことができ、Kが死亡していく現場にいることによって、必然的に生ずるはずであるK殺害容疑を回避することができるからである。
したがって、Yにとって、Kが車庫で関根と会話しているところを現認したこと、及びその後被告人関根の指示により車庫を離れたことは、Yにとって死活的に重要な事実にほかならないのである。」(『一審弁論要旨』p421)

一審判決文は佐谷田車庫からガソリンスタンドまでの約3kmの所要時間を「概ね8分程度かかることが確認されており(甲941ないし944参照)」(p213~214)と認定している。警察の走行実験結果では、「6~11分」とされているが、「実施月日が、日曜日であり、特定に至らない」とも記載されている(捜査報告書(甲943号証平成7年1月22日付))。 なぜあえて実験をやるのに渋滞のない日曜日を選んでやるのか意図が不明だが、控訴審の弁護人3名は、平日に実際にN工業ガソリンスタンドまで出向いて給油をしてみたそうである。

「この径路での道路状況は、佐谷田の車庫から北上して「南幹線」に出るまでは住宅街であるのですいているものの、そこから熊谷駅南口交差点に至る間が混んでいて、その後、そのまま「南幹線」を通っていけば国道407号線に出るまでがまた渋滞している。しかし、熊谷駅交差点を左に折れてすぐに右折して裏道を行けば、道は混んではいないが、今度は407号線に出る信号で信号待ちをする必要がある。また、国道407号線からガソリンスタンドに入るには、その手前で国道から右折して右折した道に入ってすぐ左のところにある入口からスタンドに入ることになるが、その右折する信号でまた信号待ちをすることになる。結局、平目の当該時間帯であれば、佐谷田の車庫からガソリンスタンドまでは少なくとも10分は必要となる(控訴審において立証予定)。
しかも、ガソリンスタンドでの時刻は、給油伝票での時刻である。すなわち、Yがスタンド付近に到着し、その後スタンドに入り、給油を頼み、店員が車両のガソリンタンクのふたを開けて給油を始めて、31.9リットルの給油が終わるまでの時間もさらに必要なのである。これについて、YS証言によれば、給油自体に要する時間は、1、2分、その前に計算機のところに横付けにして、カードを出し、外設のリーダーで入力し、計算機のところに行って、お客さんに(タンクのキャップを)開けてもらい、給油するまでの時間が別途かかる。それが2、3分だと言う。そうすると全体で3~5分ということになる。しかし、弁護人が行ってみたところでは、給油の量が極端に少ない場合ではガソリンスタンドで車を停止させてから(1.9リットルの)給油が終わるまでに1分強の時間がかかった。このとき店員は車が入るとすぐに車両の運転席側ドアの外に来ており、直ちに給油にかかっている。従って、それにプラス30.0リットルの給油の時間を見れば、ここでは1分半以上の時間が必要となる。」(弁護人『控訴審弁論要旨』)

渋滞はさしてひどくなかったことにしよう。車庫からガソリンスタンドまで裁判官の認定とおり8分で行けたとする。給油その他のスタンドでの行動も効率よく進んで4.5分で終えたことにする。それでも12.5分はかかるのだ。給油伝票に18時34分が打刻されるためには、Y氏はどうしても18時21分30秒という時間に車庫を出発していなければならない。警察が日曜日に実験した計測では6分という値も出ているので、それを採用すると出発は18時23分30秒ということになる。

一方、Kさんが勤務先で同僚と共に警報装置をセットした時刻は18時5分である。Kさんの車庫到着にいたる経緯を、以下、弁護人の控訴趣意書(p11~16)を適宜引用して検討したい。

「そこで、各時刻、時間について見れば、以下のとおりである。
① Kが勤務先を出発した時刻   午後6時4分ないし同6分過ぎ(原判決)
② Kが勤務先から佐谷田の車庫に至るまでの所要時間
甲922号証平成8年9月11日付捜査報告書記載の実験によると 18分58秒ないし20分13秒 
しかし、まずこのうち、①のKが勤務先を出発した時刻というものは、実は勤務先の警報セットの時刻が午後6時5分とされているところ、誤差を考慮して前後1分をとったものである(なおそのほかに警報装置のセットオンから監視装置の情報処理までに20秒を要するとされている)。これはあくまでも警報セットの時刻であって、その時刻にKが勤務先を出発したわけではない。このセット時刻については、甲941号証の捜査報告書があり、これによると、NTTの117の時報を基準として毎月2回定期的にコンピューター端末機内臓のクロックを時刻修正し、さらに毎日誤差確認を行って、60秒以上の誤差を生じていることが判明した場合は、特に修正する規定となっているとされる。ところで、コンピューター端末機内臓の時計は、当然にデジタル時計であるはずで、一方、デジタル時計がほとんど誤差を生じないことは、周知の事実である。したがって、毎日誤差を確認し、60秒以上の誤差が生じたときに特に修正することとなっているというのは、まさに念のための規定であり、現実に、そのような誤差が生じるというわけではない。したがって、誤差なるものはほとんどないと見るのが正しい。」

「一方、この勤務先から佐谷田の車庫までの所要時間の実験では、スタート時刻は、勤務先の前の路上を出発する時刻となっていて、警報セットから、勤務先前路上に至るまでの時間は無視されてしまっている。実際には、「駐車場まで、大体20メートルぐらい離れている。駐車場まで行って、車を門から出して、それから門扉を施錠し、工場の敷地内にあるお地蔵さんを拝んで、それから車に乗る。警報装置をセットして、車で出発するまでの時間が大体2、3分」(KK証言、公判記録2850丁)かかる。従って、この2、3分を加える必要がある。
次に、Kの勤務先から佐谷田の車庫に至るまでの所要時間については、Kの勤務先の門扉前をスタート地点にして3つのコースを用いて行われており、実際にKがどのコースを通ったからは不明であるが、このうちのもっとも短い所要時間を取れば、それ以上短時間で到着する可能性はかなり小さいものと思われ、また仮にそれ以上に短時間で到着したものとしても、この時間(最短で18分58秒)が大幅にさらに短くなるとは思われない。Kには特段に急ぐ理由もないから、むしろ「南幹線」をそのまま進行した可能性が高く、この3つのコースのうち、「南幹線」をそのまま進行したときの第1コースの20分13秒が正しいものと思われる。」

ここでもY氏の行動を観察した場合と同様、Kさんが会社から最短で車庫に着いたと想定して時間を計測してみる。警報装置をセットしたのは誤差を1分とって18時4分だったとする。警報装置のセットオンから監視装置の情報処理までにかかる20秒を計算すると、18時4分20秒。会社を出てそこから約20メートルの駐車場まで行き、車を門から出し、門扉の施錠までの時間を2分として、18時6分20秒。そして運行の最短時間の19分を加えると、車庫到着時間は、18時25分20秒。Y氏は18時23分30秒には車庫を後にしていなければ18時34分の給油ができないのだ。こうしてY氏とKさんが各々あらゆる場面で一切の無駄を省いて敏速一筋の行動をとったとしても、Y氏はKさんの到着を見てはいないということになる。これで、Y氏はKさんと関根氏の会話をどのようにして聞くことができたというのだろう。
第一、Kさんは車庫に着いてから、挨拶の言葉だって交わしただろう。到着するやいなや、いきなりダッジバンに乗り込んで陶々酒を飲み、会話をはじめたわけでもないだろう。この辺りのことについて弁護人は下記のように記している。

「ちなみにYは、Kが佐谷田の車庫に着いてから、Kはその車を車庫に入れ、関根と立ち話をしてからダッヂバンに乗りこみ、そこへYも乗りこんで、その後、しばらく関根がKと話をしたという。ダッヂバン後部座席にKと関根の2入が並んで座って話をしている間に関根が毒入りのドリンク剤をKに勧めたりしていたということにもなっていて、Yは関根の殺害行為についても決定的な目撃をしたとされている。すなわち、Yの供述を前提とすれば、Kが佐谷田の車庫に到着してから、少なくとも何分かの時間の経過があってから、Yは出発しなければおかしいということになる。さらに車庫を出るときのシャッターの開け閉めに要する時間があるほか、ガソリンスタンドに行く前に酒屋に寄って陶陶酒を買い、その店先の公衆電話でN子とS子とに電話をしたなら、この時間の経過も、必要となってしまう。すなわち、Yの供述は、どうあっても時間的に不自然とならざるをえないのであり、関根のKに対するドリンク剤を勧める行為を、Yの供述を前提としては、Yが目撃することなど時間的に到底不可能となってしまう。この時間的不整合に、Y供述の決定的な欠陥が存在するのである。」(弁護人『控訴趣意書』p11~16)

最終的に、Y氏は買い物や電話よりも給油のほうが先だったと供述したことになる。しかし、このような供述変遷は腑に落ちないことである。これが事件など何もない日常生活の一齣だったら後になって「どちらが先だったか」など思い出せなくてもそう不思議ではない。だがこれはY氏の人生を一変させたほどの衝撃的な出来事だったはずである。つい30~40分前まで元気だったKさんがついそこまでの買い物から戻ったら変わりはてた姿で死んでいて、それを眼前に見せつけられたのである。事態の衝撃に加え、関根被告に脅された恐怖のために遺体の解体・遺棄まで手伝わされたというのだから、暢気に買い物をしたり、電話をかけたり、給油をしたりしていた、その30分程の自分の行動が一つひとつ克明にY氏の脳裏に蘇らなかったのだろうか。もう一つ、Kさんと関根被告との間で交わされていた会話の内容についての供述変遷も納得しがたい。このような悲惨な事件にいたる紛糾の種であったはずの犬のキャンセル話が二人の間に出たか、出なかったか、このことはY氏にとっては忘れようにも忘れられるはずがないと思える。
その変遷の理由について、一審・控訴審の弁護人は、ガソリンスタンドの受領伝票と、警報セットの時間が客観的証拠として明らかになったためであるとしている。供述をそれに合わせる必要があるからだと言うのだが、これは適切な推測だろうと思える。また、Kさんの到着後、Y氏が車庫を出発するまでの時間を5分としたのは、Kさんの警報装置のセット時間を即退社時間と勘違いして計算したために狂いが生じたのだろう、と推測しているのも的確ではないだろうか。

この問題について、一審判決文は下記のように認定している。

「ところで、各被告人の弁護人らは、「Yは、Kが佐谷田の車庫に来てから5分位して関根の指示により車(ミラージュ)で出発し、N工業西熊谷給油所で給油をしたと供述しているが、検察官請求の証拠によると、Kは当日の午後6時4分ないし同6分過ぎころに熊谷市大字三ケ尻○○番地所在の同人の勤務先を車で出発して佐谷田の車庫に向かい、またYは午後6時34分に同市大字村岡△△番地所在の右給油所に右ミラージュで立ち寄って給油したことになるところ、Kの勤務先から佐谷田の車庫までは普通に走行しても20分近くかかるのであり、また佐谷田の車庫から右給油所までは3キロメートル以上あることからすれば、Yがそのような時間に給油のため立ち寄れるはずもなく、このことは右Y供述が虚偽である何よりの証拠である。」などと主張している。確かに、Kが概ね右の時刻に勤務先を出て佐谷田の車庫に向かったこと及びYが当日万吉犬舎に乗ってきた前記ミラージュが午後6時34分ころ右ガソリンスタンドに現れ給油をして立ち去ったことは証拠上動かしようのない客観的事実であるところ(したがって、この間の時間はせいぜい30分位ということになる。)、捜査車両を使った走行実験によれば、Kの右勤務先から佐谷田の車庫までは車で概ね19分程度、佐谷田の車庫から右ガソリンスタンドまで概ね8分程度かかることが確認されており(甲941ないし944参照)、これにYの言う5分位を加えると、32分位という数値が算出されるから、Yが午後六時三四分位までに給油を終えることは不可能のようにも見える。しかしながら、Kの車が(勤務先を出て途中で同社従業員であるKK運転の車と別れてから)佐谷田の車庫に至るまでどの道を走行して来たのか、KやYの車が走行した道路の犯行当日のその時間帯の道路の現実の混み具合等がどのようなものであったのか等については不明なのであるから、右の実験結果はもとより一応の推定値に過ぎず、Kの車やYの車が実際に走行した際の所要時間とある程度の誤差がありうることはむしろ当然であり、またYの言う「Kが来てから5分位経ってから出発した。」というのも多分に感覚的なものであることも明らかであるから、弁護人らの指摘する右の点は、何らY供述の真実性を損なうものではないといわなければならない。それどころか、僅か2分位の差しかないという両者の数値の近似性を考えれば、むしろ逆に、右指摘の点はY供述が真実であることを強力に裏付けているといいうるのである。しかも、前記のとおり、関根自身も「YはKが佐谷田の車庫に現れた当時自分と一緒にそこにいた。」旨断言しているのであるから、これらの事実を総合して考えると、Kが来た後に関根の指示で佐谷田の車庫からミラージュを運転して給油等に出かけたとするY供述が真実であることはいささかも疑う余地がないといわなければならない(そして、当然のことながら、この事実からすれば、Kが来てからYに給油等に行くように指示したことはなくYが出かけたこともないとする関根供述は全く信用することができず、そうなると、Yが車中でのKとの話し合いの席に終始居合わせた上同人が眠りかかった隙に絞殺したという関根の弁解は根底から完全に崩れ去ってしまうこととなるのである。)。」(『一審判決文』p212~215)

裁判官も検察官同様、「会社を出てそこから約20メートルの駐車場まで行き、車を門から出し、門扉の施錠をし、工場の敷地内にあるお地蔵さんを拝む」2、3分を無視している。給油が絶対的に要する時間も無視。また裁判官は「Yの言う「Kが来てから5分位経ってから出発した。」というのも多分に感覚的なもの」と述べているが、この「5分」は、当初の15~20分から10分になり、数多の変遷の末に辿り着いた「5分」なのである。裁判官がこのことを知らないことはないはずである。「Kの車やYの車が実際に走行した際の所要時間とある程度の誤差がありうることはむしろ当然であり」との認定も、上記の計算はすべて実験結果のうちあえて最短時間を選択して計算していることを念頭に置けば、裁判官としてあまりにも不合理・不公平な認定であるとしか言いようがない。まして「弁護人らの指摘する右の点は、何らY供述の真実性を損なうものではないといわなければならない。それどころか、僅か2分位の差しかないという両者の数値の近似性を考えれば、むしろ逆に、右指摘の点はY供述が真実であることを強力に裏付けているといいうるのである。」という認定にいたっては、ただ茫然として言葉がない。裁判官のこの見解は、たとえば朝8時発の列車が定刻通りに発車したとして、その発車時刻に遅れたのがたった2、3分なら、間に合ったも同然だ。そういう場合は、乗れたことにしても、なんら不都合はない。それで立派に通用する。このように述べているに等しい。だが駅に8時2分に着こうが、9時に着こうが、8時に出発した列車には遅れたら最後、誰も決して乗れないのである。この判決文は、死刑事案だというのに、当然計算に入れるべき時間も無視して組み入れず、そのうえ、少し丁寧に見たら誰もごまかされるはずのない詭弁のような論理を手品のように並べてもっともらしく見せているように思えるのである。
2009.06.22 Mon l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (1) トラックバック (0) l top
風間博子さんの「殺害関与否定」は、「不合理な弁解」か?
周知のように、6月5日、最高裁は「愛犬家殺人事件」の被告人の上告を棄却し、これによって関根元さん、風間博子さんの死刑が確定した。読売新聞は下記のように伝えている。

「 埼玉県の愛犬家ら4人が1993年に殺害された埼玉愛犬家連続殺人事件で、殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われ、1、2審で死刑判決を受けた元ペットショップ経営・関根元被告(67)と元妻風間博子被告(52)の上告審判決が5日、最高裁第2小法廷であった。
 古田佑紀裁判長は「猛毒を飲ませて中毒死させた上、死体を切り刻むなどして山や川に捨てるという犯行態様は、冷酷で悪質極まりない」と述べ、2人の上告を棄却した。2人の死刑が確定する。
 関根被告は「犯行を主導したのは風間被告」と主張し、風間被告は「殺人にはかかわってもいない」と主張していたが、判決は「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」とこれを退けた。
 判決によると、両被告は93年4~7月、ペットショップの顧客で、犬の売買を巡ってトラブルになっていた埼玉県行田市の会社役員の男性(当時39歳)ら3人に、猛毒の硝酸ストリキニーネを詰めたカプセルを飲ませて殺害した。関根被告は同年8月にも同じ手口で同市の主婦(同54歳)を殺害。4人の遺体を切断、焼却して山などに捨てた。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090605-00000682-yom-soci

また風間博子さんの支援サイト「友人の会」は判決の模様を次のように報告している。

「言い渡しは、わずか三分程度。これまで、博子さんが精密に立証した無罪の主張に一言もふれない決定内容でした。閉廷の言い渡しと同時に、支援者から「博子さん、やってません」の声がとびあわただしく退出しました。」
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kazama_muzai

まだ判決全文を読めないでいるが、テレビのニュースで、裁判長の被告人に対する「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」との発言を聞いて、このなかの「不合理な弁解」という言葉がしばらくの間耳について離れなかった。風間博子さんに関する裁判資料を読んでいて、私が最もつよく感じたことも、不合理ということだったのだ。この裁判の全体の構図についても、またその集約としての判決文に対しても、その多くが不合理であり不自然であると感じた。もっともこれは風間博子さんに限ってのことだから、最高裁が関根・風間の二人の被告人の相異なる主張を一括りにしていることも不合理の一つと思う。
とりわけ「不合理」と感じたのは判決文に対してだが、一審判決文に対してだけではなく、二審の判決文についても同様の感想をもった。浦和地裁の判決文は、一つひとつ、具体的に事実認定をしているので、その分、矛盾が端的にあらわれていると思うが、控訴審の判決文は目次もふくめてわずか77ページ。内容は、「原判決に事実誤認はない」、被告・弁護人に対する「所論は理由がない」「所論は失当である」という判定の連続で、その論拠を述べた叙述を読んでいると、一審判決文以上にトリックじみて聞こえ、しかも姿勢はよりかたくなのように感じられた。これらの判決文を読んで、その説示するところに心から納得できる人間がはたして何人存在するのだろうか? 今もその疑いは拭えない。
そのような心境のなかにいる私には、最高裁の「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」との判定も、これまでの判決と同様に不可解である。

ヨーロッパ中世の刑事裁判について、フランスの法学者、ジャン=マリ・カルバスは『死刑制度の歴史』(白水社2006年)のなかで次のように記している。

「われわれは中世を「絞首台の時代」としてイメージするが、実際はまったくそうではない。何よりも、法律家も神学者も極刑をあたりまえのように使うことは望まなかったし、誰もが、そのニュアンスはさまざまだが、その例外的性格を強調しているのである。(略)
……モンペリエ大学法学部のローマ法教授ジャン・フォールの見解も同様である。「人の命を奪う毒が見出されるのは最後である。それが最後に見出されるのは当然のことである。なぜなら死刑を科するのは裁判官の最終手段にほかならないからである。恐ろしい懲罰で威嚇するのであれ、笞刑や牢獄によってであれ、その他のより軽い矯正手段によってであれ、裁判官は道に外れた者たちを正道に戻してやらねばならない。しかし、裁判官は、死刑を科すにしても、その前に他の手段をすべて尽くさなければならない。……裁判官は裁判を受ける者たちに父のごとき配慮を示さなければならないし、処罰はやむをえず科すのでなければならない。……なぜなら裁判官が人の死から名誉を得るようなことをすれば、彼自身が殺人者となろうからである」(ユスティニアヌス『法学提要』註解)。

ともすれば私たちが「血塗られた時代」として乱暴に一括りにして考えがちな中世14世紀にあっても、上記を読むと、心ある法関係者の多くは人間が人間を処罰する行為のもつ怖さを十分に認識していたようである。特に、「処罰はやむをえず科すのでなければならない。……なぜなら裁判官が人の死から名誉を得るようなことをすれば、彼自身が殺人者となろうからである」という言葉は、司法や刑罰の本質をついて余すところがないと思うのだが、翻って日本の現状はどうだろうか。
本来、最後の救済機関であるはずの裁判所が無実の被告人に有罪判決を言い渡すということになれば、その罪はそれだけで一般市民の犯罪とは比較にならないほど重いはずである。まして誤判による「無期」、さらには「死刑」の宣告となれば、たとえば、病のために病院を訪れた患者に対し、医師が治療を施すのではなく、逆に毒やメスをふりかざして襲いかかり、瀕死の重傷を負わせ、死傷に至らしめるというような行為に相応するだろう。いや、医師ならば、そのような行為におよべば、官憲によって即逮捕・拘禁されるのだから、どんな誤判をしても一切お咎めなしの裁判官の誤判はそれよりもさらに悪質な犯罪であるといわなければならないだろう。足利事件の菅谷利和さんだけでなく、すでに昨年処刑された飯塚事件の久間三千年さんについてもしきりに冤罪の可能性がいわれている。また林眞寿美さんの死刑判決はどうだったのか、合理的な疑いを超えた事実認定をしたといえるのか、疑念を払えない。

8年間の裁判官経験をもつ広田富男氏は、20年前の1989年、死刑囚の再審無罪が相次いだ当時の世相のなかで、「最近の裁判所の被告人軽視の裁判をみると、そのころ(現行の刑事訴訟法が施行されて間もない時期)以上に誤判は増えているはずだ」と述べている。そして、人の生命身体の自由を奪うことになる刑事裁判官は、特に細心に注意を払って慎重に審理し、被告人を有罪にするには、「おっかなびっくり」で仕事をすべきだと述べている(『刑事裁判の光と陰』有斐閣1989年)が、これは含蓄のある大変印象的な発言である。この発言には、人間の不完全性、過ち多い人間の本質をよく知る人の思慮分別と誠実さがこもっているように思う。このような姿勢はいつの時代でも司法官に求められているにちがいないはずだが、現在の裁判所にはとりわけつよく求められているのではないだろうか。

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Y氏の手記、著書の問題
前回、事件の共犯者であるY氏が出所後、雑誌や著書で著した事件の内容は、判決の根拠となった供述調書の内容とは、最重要部分をふくめてまるで異なるものだったこと、また、関根・風間両被告人の公判廷に証人としてあらわれたY氏が、一・二審ともに風間被告の殺害関与を否定する証言をなしたことを述べた。つまりY氏は公的に風間被告の殺害関与を否定したことになる。法廷での証言は誰にもわかるように当然公のものだが、著書にしても同様のことが言えるはずである。Y氏の場合、週刊誌の手記にも本にも本名が使用され、3人の共犯者のなかの一人(この事件の逮捕者は後にもさきにも関根・風間・Yの3氏だけである。)であると名乗った上での著作なのだから、これがY氏を指すことは明白だと思う。
だが裁判所は、一切取り合おうとしない。著作について、控訴審の判決文は「Yの手記や著書なるものはY本人が著したものとは認められない上、あくまで読み物の類であって、その内容の真実性は担保されていないから、これをもってYの捜査段階における供述の信用性を否定する根拠とすることはできない。」と記している。
しかし「本人が著したものとは認められない」とは何事だろう。ある著者名を名乗って雑誌に文章を書き、本を出版するからには、その時点で著者にも出版社にも書いたものへの責任が生じるのは当然のことと思う。裁判長は、このような社会的責任も義務も著者、出版社は負わないものであり、負う必要もないと述べているのだろうか? たとえY氏が記述にあたってゴーストライターをつかったとしても、そのことは執筆者としての責任をなんら軽減してくれるわけではない。第一、この場合、事件の内容を語ることができるのはY氏以外にいないはずだし、そうでなくても文責はゴーストライターではなく、著者が負うものだ。「読み物の類であって、その内容の真実性は担保されていない」などの解釈も社会で通用するはずがない。Y氏はその経歴を見るかぎり、「読み物」作家としての実績をなんらもっていないのだから、そのような人物が突然「読み物作家」として雑誌に文章を書いたり、本を出版したりできるはずがないのだ。手記を書き、著書をだすことができた唯一の理由は、Y氏が「愛犬家殺人事件」の共犯者であったからであり、そうである以上、出版社はY氏の語る内容の真実性について重々念を押して確認しないはずがない。でなければ、出版社自ら読者を騙すことになりかねないのである。
裁判長は上記の認定により、出版社などの会社組織や著者個人は自分の行動に責任はとらないし、とる必要もないと宣言しているのだろうか? だとしたら、それは社会における倫理観念をはなはだしく阻害することにつながるのではないかと思う。
公判廷でY氏が述べた風間被告の殺害関与の否定について、一審、二審ともに、判決文がなんら触れていないのは、率直にいって、「避けた」「逃げた」としか解釈できない。かりにもこれは人を死刑にしようとする判決なのである。それなのに、法廷でのこの重大証言について判定しないどころか触れもしないなど、不誠実という以前に、あまりにも無責任ではないだろうか? このようなことができる裁判官は、そもそも裁判官という職務をどのようなものと自覚し、認識しているのだろう。これでは、日本の裁判の現状は、前に紹介した中世の裁判よりも、特に心構えにおいてはるかに劣っているといわれても仕方がないのではないだろうか?

Y氏が風間被告の証言に怒リを見せない理由は何か
Y氏が風間被告の殺害関与を否定する証言に私は信憑性を感じるが、それは事件全体の構図のなかで、その判断が最も合理的であり自然である、したがって一番確実性が高いと映るからである。そのうちの一つに、裁判資料や著書にあらわれているY氏の行動様式や物の考え方や性格などの面から推測しての判断もある。
Y氏は取調べ当初、自分がいなければ警察・検察は事件の解決などおぼつかないのだから、自分の言い分はすべてとはいわないまでも、相当の程度まで通すことができると考えていたようである。一旦逮捕されても早期の保釈、不起訴処分などが実現できると思っていたらしきところにそれが感じとれる。が、それが叶わないとなると、次のような行動に出る。

「Yは1月下句ころから、約束されていた筈の保釈申請が認められないために、いら立ち、検事に暴言を浴びせ、ふてくされた態度をとるようになり、検事の取調べ室のドアを蹴って「覚えてろ」などの捨てゼリフを言い、さらに保釈と調書への署名との取引を求めるなどしていた。」(『一審弁論要旨』p27)

「「I検事には証拠さえ出してくれれば何でも言うことを聞いてやると言われていた。」などと、同検察官との間で取引又は密約があったかのような供述をなし、また当裁判所に証人として出廷した際にも、右のような取引があったことをひたすら強調するような供述をする一方で、検察官等に対して極度に挑発的な態度を取るとともに、検察官及び弁護人らから事件に直接関係する事項について質問を受けると、「忘れた。」、「覚えていない。」などと実質的に殆ど証言拒否に近い態度を取り続けた。」(『一審判決文』p167)

I検察官について、Y氏は著書で、「Iは関根と同じ人種だ。学歴や見せ掛けを別にすれば一体どこが違うというのだろう。甘い言葉で人を騙し、騙されたことに気づいた時にはもう抜き差しならない立場に追い込まれている。人生の岐路に立つ者にとって嘘ほど罪深いものはない。」、「こんな神経を持ち合わせているのは、関根を別にすれば、あの男しかいない。」、「Iは花の東京地検特捜部へ栄転して行った。/おめでとう、I検事。お前さんは検察庁の関根だ。」などと尽きない恨みを記しているが、Y氏がこれほどまでにI検察官を憎むのは、保釈や不起訴処分などの事前の約束が破られた。自分は嘘をつかれ、騙されたとの強固な認識によるもののように思われる。

一方、風間被告は、Y氏の事件への関与についてどのような証言をしているか、長くなるが詳しく見てみたい。
まず、最初のKさん殺害について、取調べの検察官に対して下記のように述べている。

「私が関根から、関根とS(注:Y氏のこと。以下同)の二人でKさんを殺したという話を打ち明けられたのは、私がSさんと一緒に東京まで車を置きに行った日の翌日か翌々日の日のことでした。/時間的には夕方でしたが、関根とSさんが、ペットショップの店に来て、Sさんは外におり、関根だけが店の奥の部屋に入って来ました。/その時、関根は私に対し、
Kは、Sがやっちゃった
と言って、両手を上に向けて握るようにして開いたのです。
私は、その関根のポーズを見て、KさんはSさんがロープか紐で絞め殺したんだなと思いました。/私は、関根のその言葉を聞いて、
なんで
と言って聞き返すと、関根は、Kさんとの犬のトラブルが元で、ヤクザ者まで差し向けて金を返せとか言ってうるさくてどうしようもないので、Kさんを殺してしまったという趣旨のことを言っておりましたが、関根の言葉は所々しか聞き取ることができませんでした。
それは、私がびっくりして頭の中がボーとした状態で、全ての言葉を正確に聞き取れなかったからであります。」(2月17日付『検面調書』)

二番目に発生したE・Wさん殺害事件について風間被告がどのように述べているのか、判決文より引用する。

「5分位して自分の車をE方前から少し移動させて車を降りE方前に戻ったところ、関根とYが家の中から何か重そうな物を運んで出て来たので、近寄って自分もそれを持ったところ、毛布が被せられていたが、その感触から死体であると感じてびっくりした。関根とYは、それを玄関の近くに停められていた車(カリーナバン)の荷台に運び込み、関根が「お前が運転しろ。」と言ったので、思わず「はい。」と言って運転席に飛び込んだが、カリーナバンにはWが椅子を半分倒したような状態で助手席に座っていた。/関根の指示でカリーナバンを発進させてまもなく、Wが「気持が悪いから医者に行ってくれ。」と言い出した。自分としてはとにかく病院に行かなくちゃという気持からその後4、50分ほど車を走らせていた。荒川大橋の手前で曲がれと後部座席から指示されたので、それに従って左折したが、段々人気もなくなり、減速したら後ろから「もっと暗い道を走れ。」と言われ、そのまま車を走らせていたところ、関根とYが「掛かったか。」などと言いながらWの首に紐のような物を掛けて、二人で何度も「せえの。」などと声を掛けながら引っ張り合っていた。そのときWの両足がダッシュボードの上にせり上がり、足が窓ガラスに当たってガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、Wはその場で死んだ。」(『一審判決文』p126~127)

「風間も、「事件後に自分が身体の調子が悪くなって埼玉医科大学に行くことになり、関根やYと車に乗っていた際に、Yが『手伝えばくれるって言ったじゃないか。100万まだ貰ってないよ。』と関根に言い、関根が自分に金を持っているかと言ったので、ハンドバッグに入っていた70万円を渡した。その70万円はKのときの分なのかそれともEのときの分なのかは分からないが、報酬だと感じた。」などと、あたかも具体的な報酬話があったかのように述べているものの、その内容は、本件のごとき極悪犯罪に殺し屋として自ら進んで積極的に加担した者が要求した謝礼がたかだか100万円であったとか、それに対して70万円を報酬として支払って済ませたというような極めて不自然でいかにも取って付けたようなものであって、丁度同じころに関根から(Eらの死体損壊遺棄作業を)手伝ってもらったお礼に家を一軒やるとか1000万円をやるというような調子の良い話を聞かされたという前記Y供述と対比しただけでも、到底信用することができないものである。」(『一審判決文』p327~328)

「被告人風間は、自己がK、E、Wに対する各殺人の犯行に関与したことを全面的に否認する一方で、「自分はYが(関根とともに)Wを絞殺したのを目撃した。KもYが絞殺したと被告人関根から聞かされた。」などと、極めて重要な場面についてYに殺人の罪をなすり付けるためのあからさまな虚偽弁解をなし、更には多数の重要な場面についての自己の行動や認識内容等についても、証拠上明白な事実についてさえ頑として虚偽弁解を続けるなど、自己の犯した犯罪に対する反省の念は全く見られないのである。」(『一審判決文』p411~412)

上述の証言で分かるように、風間被告は、①アウディを都内に運搬した日の翌日か翌々日、Kさんの頸を絞めて殺害したのはY氏であると関根被告から聞かされた、②E・W事件では、Y氏が関根被告と二人がかりでWさんを絞殺した場面を直接見た、③三人で乗っていた車のなかで、Yが『手伝えばくれるって言ったじゃないか。100万まだ貰ってないよ。』と関根に言い関根が自分に金を持っているかと言ったので、ハンドバッグに入っていた70万円を渡した、その70万円はKのときの分なのかそれともEのときの分なのかは分からないが、報酬だと感じた、などとY氏についてきわめて不利な厳しい証言をしているのだ。裁判官は風間被告のこのような証言について、「極めて重要な場面についてYに殺人の罪をなすり付けるためのあからさまな虚偽弁解をなし…」などと述べているくらいなのである。だから、もし風間被告のY氏についてのこのような主張が裁判官のいうような虚偽弁解なのだとしたら、これまで見てきたY氏の行動様式、性格から推測して、彼が風間被告に対してこのようにおとなしくしているだろうか? 関根被告やI検察官に対すると同様に、はげしい非難の言葉を浴びせているのではないだろうか?逮捕に至るまで、Y氏と風間被告との間には特に悪感情もなかったかわりに、親しみのある人間関係でもなかったようなのである。だからY氏の側に風間被告に対する特段の思い入れなどはないと見て間違いないだろう。しかしY氏は風間被告の上記のような証言に一度も怒りも恨みも表わしていない。それどころか、「風間被告は殺害に関与していない」と何度もきっぱり明言している。
このことは、風間被告の殺害関与を否定するY氏証言の信憑性を検討するうえで、また風間被告の主張を考察するうえでも、見逃すことのできない一側面だと思う。
2009.06.13 Sat l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (3) トラックバック (0) l top
6月5日、「埼玉愛犬家殺人事件」最高裁判決!
「埼玉愛犬家殺人事件」の最高裁判決は6月5日(金)に言い渡されるとのことである。口頭弁論が開かれたのは3月27日だったから、弁論から判決までの期間はわずか2か月余ということになる。最高裁の口頭弁論は今では単に形式上のセレモニーに過ぎない、実質的には裁判としての体をなしてはいないという趣旨の嘆息や批判を雑誌などでよく見かけてはいたが、この日、はじめて最高裁に足を運んでみて、やはりそうなのかという感想を禁じえなかった。死刑を争う事件の裁判にしては法廷に緊迫感がさほど感じられなくて、緊張して足を運んだ傍聴人としては少なからず拍子抜けがした。そもそも被告人はなぜこの場にいないのだろう(注1)。風間博子さんの弁護人は、被告人は謀議も実行もふくめて殺人には一切関与していないとして「無実」を主張し、「無罪判決」を求めていたが、その主張が内容自体として裁判官に伝わるという確信をもって言葉を発しているのかどうか、被告人への厳罰化傾向ばかりが目につく近年の刑事裁判の流れのなかで、無力感にさいなまれることも多いのではないかと、弁論を聴きながら思ったことであった。
先年亡くなった大野正男氏は著書『弁護士から裁判官へ-最高裁判事の生活と意見-』のなかで最高裁に次のことを求めていた。貴重な提言だとあらためて思うので、ここで記しておきたい。

「(現在)年に大法廷が一、二回、各小法廷が十数回というくらいである。/最高裁での弁論は、弁護人にとって職業上の名誉であるだけでなく、事件そのものの記念碑であり、最高裁にとっても重要な社会的意味を持つ儀式である。/しかし、口頭弁論があまりに形式的になり形骸化されるようになったことについては、裁判所としても考え直す必要があろう。それは弁論を開くのが、内部的に結論が決まってからになるという近時の慣行である。それが確定的なしきたりになり、弁護士界にも知られ、報道機関も承知するようになれば、弁論が実質的に尊重されなくなるのは、やむを得ないことである。/弁論を開いてから内部的な最終結論ということになれば、弁論と判決の間の期間が現状より長くなるけれども、それはむしろ必要な時間であろう。その結果上告棄却の結論に達することもあり得るが、それはむしろ当然である。/裁判所が最終結論を出す前に、当事者が実質的な意見を述べることによって、これに寄与するというのは、判決への信頼度の担保として重要である。」(岩波書店・2000年)

さて「埼玉愛犬家殺人事件」の最高裁判決について、下記『NIKKEI NET』に関連記事が出ている。

「埼玉県で1993年、愛犬家ら男女4人が殺害された事件で、殺人などの罪に問われ、1、2審で死刑判決を受けた元犬猫繁殖業、関根元被告(67)と、元妻の風間博子被告(52)の上告審で、最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)は18日までに、判決期日を6月5日に指定した。
3月に開かれた弁論で、両被告の弁護人は互いに相手が首謀者であるとして「死刑は重すぎる」と主張。検察側は上告棄却を求めた。
1、2審判決によると、関根、風間両被告は93年4-7月、犬の売買を巡るトラブルから男性会社員(当時39)ら3人を殺害。また、関根被告は同8月、主婦(同54)を毒殺した。」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090518AT1G1802B18052009.html

この記事に、「両被告の弁護人は互いに相手が首謀者であるとして「死刑は重すぎる」と主張。」とあるが、「死刑回避」を求めたのは関根被告側であり、風間被告側は、「死体損壊・遺棄」については関根被告の強制でたしかに手伝ったが、殺害については「無実」を主張し、「無罪判決」を求めているので、『NIKKEI NET』の表現は正確さに欠ける。『時事ドットコム』の『埼玉愛犬家殺害で来月判決=一、二審死刑の元夫妻-最高裁』というタイトルの記事では下記のように「死刑回避や無罪を求めた」と記されている。

「1993年、埼玉県内の愛犬家ら男女4人の連続殺害事件で殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とされた元犬猫繁殖販売業関根元(67)、元妻風間博子(52)両被告について、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は18日までに、判決期日を6月5日に指定した。
 両被告側は3月の弁論で、死刑回避や無罪を主張。検察側は上告棄却を求めた。」
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200905/2009051800738

「両被告側は3月の弁論で、死刑回避や無罪を主張。」という表現は、『NIKKEI NET』の「両被告の弁護人は互いに相手が首謀者であるとして「死刑は重すぎる」と主張。」に較べれば正確な表現だと思うが、死刑回避と無実の主張とでは当事者の裁判を戦う目的が全然異なるのだから、「3月の弁論で、関根被告側は死刑回避を、風間被告側は無罪を主張」と正確に表現してほしいし、するべきだと思う。どちらの書き方をしても、文字数はせいぜい7、8字しか違わないのだから。

風間博子さんは本当に人を殺したか?
6月5日にどんな判決が出るのか、現時点ではもちろん不明だが、私は風間博子さんへの一・二審の死刑判決には納得のいかなさ、不審の念をおぼえている。この事件について私は実のところ長い間ほとんど何も知らなくて、いくらかの知識を得たのは、1年程前、共犯として逮捕され、3年の実刑判決を受けた人物が事件を描いた本を読んだときだった。
今振り返ってみると、読みながら信憑性に微妙に疑問を感じた箇所がいくつかあったように思う。たとえば、現被告人の風間博子さんが死体の解体をしながら歌を口ずさんでいた、という場面には、残酷さというより一種奇妙な希薄な印象をうけた。現実感がともなっていないように感じられたのだ。といっても、その印象は印象として、その後はほとんど忘れてしまっていたのだが、今年にはいって、一審の「弁論要旨」「論告」「判決文」などの裁判資料を読んだ。これは偶然の機会に過ぎなかったのだが、読みすすむにつれて判決に対する疑問が大きくなっていくのをどうしようもなかった。このような不可解な判決が世の中でほとんど疑問視されることなく通用しているのである。冤罪に関する情報は報道でもしばしば聞くので、死刑判決にもいつでも誤判はありえると思ってはいるのだが、実際にこのような疑わしい判決を目のあたりにすると、やはり衝撃をうけずにはいられないものである。

捜査段階での警察・検察の動きの異常さも目を覆いたくなるものがある。だが最も問題なのは、裁判官の事実の認定ではないかと思う。事件を構成する一つひとつの具体的な出来事にたいして判決文が示している解釈や判断は、私たち人間一人ひとりがこの世界を生きていくなかで培い、獲得していく経験則から推しはかって、あまりにも不自然、不合理であり、とても納得できるものではないと感じた。事実をありのままに公平に眺めた上で良心にしたがって素直に解釈し、正確に判断しようとするのではなく、解釈を歪めて無理な判断を重ねているように思えたのだ。なぜそうなるのだろう。事実がふくんでいる自然に逆らって、あらかじめ自分のもっている偏見や思い込みや欲求や意図をそこに強引に加えてしまうからではないだろうか。

風間博子さんの死刑判決は、そのようなプロセスのなかから導きだされたのではないかというのが現在の私の疑いである。風間被告は、はたして検察官が主張するように、また一・二審の裁判所が認定したように、一連の事件において主犯の関根被告と殺害の謀議をなし、また自ら殺害を実行したのだろうか?実際そのとおりだったのか、それとも真相は異なるのか、このことについてこれから順次考察していきたい。

この事件は、「愛犬家連続殺人事件」としてその名称だけは多くの人に知られているが、個々の事件のそれぞれの内容は必ずしも正確に周知されているとはいえないと思えるので、裁判資料を援用してまず事件の概略を述べておきたい。
起訴された事件は全部で3件、事件名はすべて「殺人、死体損壊・遺棄被告事件」で、被害者は4名である。被害者は全員被告人たちの知人であり、とりわけ関根被告の近しい関係の人たちだった。殺害方法は、裁判所の認定では一様に、「アフリカケンネル」という、犬などの動物の繁殖・販売業を営んでいる被告人たちが、犬の薬殺用の硝酸ストリキニーネを被害者に飲ませて毒殺し、遺体は解体し、骨は所持品と一緒にドラム缶で焼却した後、肉片や内臓とともに山や河川に捨てて証拠を滅却したという。殺害方法の「薬殺」については、関根被告、風間被告の双方が異論を唱えているが、これについては、後に判決文を検証する際に詳しく見てみたい。
最初の事件は1993年4月20日、会社員であるKさんの殺害。次は同年の7月21日、暴力団幹部のE氏とその付き人のWさんを殺害したというもの。この2つの事件は、関根被告と風間被告が共謀して殺害計画を練り、関根被告が自身の運転手のような役割をつとめ、また当時自宅に関根被告を住まわせて共同生活を営んでいたY氏を脅して死体損壊・遺棄を手伝わせ、三人共犯で事件を起こしたとされている。最後の8月26日のSさん(女性)殺害は関根被告が単独で殺害計画・実行をなし、死体損壊・遺棄には前2件と同様にY氏を誘い込み、共犯者にしたてあげたという。つまり最初の2件、被害者3名の殺害は関根・風間・Yの三氏でなされ、3件目のSさん殺害は関根被告とY氏の二人だけで実行したとされ、風間被告は無関係であるとして起訴もされていない。
すべての事件で、被害者の遺体は、わずかに骨片、歯片などが見つかっているだけである。上記で述べたように、解体され、焼かれ、河川や山林に遺棄されて、痕跡を消されてしまったのだが、遺体の解体もドラム缶をつかった焼却も、3件ともY氏の自宅で行なわれている。つまりY氏はすべての事件にきわめて深く関与しているわけで、関根・風間の両被告とともにこの事件のすべての真相を知る三人のうちの一人であり、そういう意味でY氏は今もなお事件解明の鍵をにぎる最重要人物なのである。

やがて、「アフリカケンネル」(この「アフリカケンネル」には「万吉犬舎」と「ペットショップ」があり、関根被告は、「万吉犬舎」を、風間被告は「ペットショップ」をと、分担して経営していた。「アフリカケンネル」はこの2店の他に前年(92年)購入した「江南犬舎」も所有していた。こちらは敷地の一角に自宅も建てられた広大な犬舎だが、事件当時「犬舎」として使用されていたのは「万吉犬舎」であった。)の周辺で複数の人物が立て続けに行方不明になっていることが近隣でひそかな噂になりはじめたようだ。翌1994年春先からテレビなどのマスコミがこの話題を取り上げるようになり、関根被告はマスコミに追われるようになるのだが、こういう様相に、警察もつよいプレッシャーをうけはじめたらしい。そして事件解明の突破口を、事件に関わっているにちがいないと見えたY氏に絞ったようである。そのへんの事情、それ以降の経緯を風間被告の弁護人による『一審弁論要旨』は次のように述べている。

Y氏の取調べ状況の驚くべき異様さ
「本件は徹頭徹尾、共犯者であるYの供述に完全に依拠した捜査が行なわれ、Y供述にのっとった捜査当局の事件のストーリーが完全に構築された上で、強制捜査が行なわれ、Y供述に従った自白を被告人両名から獲得すべく捜査、取調べが行なわれた事件である。
このことは、平成7年(95年)1月5日、被告人両名が逮捕される前に既にYの員面調書14通、検面調書1通、上申書3通が作成され、さらに被告人両名の逮捕の翌日から、被害者4名の遺体の解体が行なわれた群馬県片品村のY方の現場検証が行なわれ、Yの希望に従って検証終了日の同月8日にYが逮捕されたことに端的に示されている。
共犯事件であり、4名の犠牲者が出ている本件においては共犯事件特有の共犯者供述が必然的に帯有する危険性が十二分にあるのであり、この点から、共犯者各人の供述内容を慎重に吟味しつつ、各共犯者の犯行関与の有無・程度についての捜査が行なわれなければならない。
然るに、当公判廷でYが供述した通り、捜査当局はYとの様々な取引を通じて獲得された供述を前提として捜査を進め、事件のストーリーを作り上げ、被告人両名とりわけ被告人風間博子(以下、被告人風間という)の真摯な供述に一切耳をかさずに捜査を行ない、その結果、全く真実とは異なるYの犠牲者4名に対する死体損壊・遺棄という罪名のみでの起訴という極めて不当な結果を生ずることとなったのである。
このような捜査の歪みが、本件公判廷におけるYの事件に関する供述の全面的な拒否という異常事態をもたらしたのである。」(『一審弁論要旨』より)

勾留に至るまでのY氏の言動、またY氏をとりまく捜査状況はきわめて異常なものだったようである。その具体的内容を、前記の『一審弁論要旨』と、『判決文』とを適宜用いて紹介したい。まずは『一審弁論要旨』から。

「(1) Y氏が勾留されるまでの経緯について
1) マスコミ報道によって、E殺害の犯人として被告人関根元を疑った暴力団T組は、その共犯者としてYに対する圧力を強めていたが、周辺捜査からK子(Y氏の妻)の詐欺事件を見出していた捜査当局は、平成6年9月以降、事件の最も弱い環としてYにターゲットをしぼることとなった。
2) 同10月17日、Yに対する事情聴取が行なわれたが、翌日YはK子と共に逃走し、これを機に捜査当局は、Yに対する圧力をかけることを最大の目標としてK子の逮捕令状を取得し、指名手配を行なうこととなった。/11月24日、愛大家事件捜査班のみで組織された捜査陣は、Yの歯科治療に同行したK子を逮捕することに成功したが、Yはこの捜査陣から再び逃亡した。/もともとK子の詐欺事件は痴話喧嘩のもつれに端を発する事件であり、被害者の処罰感情も低いものであり、同事件の立件の主目標がYに対する圧力とゆさぶりであることは明らかであったが、Yは前記T組に加えて捜査当局の重大な圧力を受けることとなった。/その結果、Yは、11月20日に担当刑事であるMとの接触を図り、事態の打解を図ることとなり、12月1日にその後の取調べに応ずることを承諾することとなった。/ここでのYの目的は、無論自らが殺人事件に関与していないとの主張を捜査当局が受け入れるか否か、捜査当局の手持ち資料のさぐりであった。
3) 右の如き目的を持ったYがその後簡単に事件についての関与を認めるわけはなかったが、「お前が目的ではない、関根の逮捕が目的なんだ」等の言葉から、捜査当局が自分の描いたストーリーに沿った捜査が行なわれるとの見通しを持ったYは、遂に12月8日から、既に考えつくした筈であるストーリーを語り始めるに至ったのである。
4) Yは右の通り事件についての供述を始めるに至ったが、常にK子の処分が念頭にあった筈であり、捜査当局もこれを利用して取調べを行なっていたものであって、そのことは平成6年12月14日のK子の起訴の日のYの員面調書が2通、これまでで最長の35ページに及ぶものが作成されたことにも現われている。/Yとしては、自らの逮捕が当然予想されたことから、逮捕勾留以後の接見及び差し入れの担当者としてK子が必要だったからである。
5) Yの逮捕前の取調べ過程の異常性を示す事件は、K子の保釈手続きにまつわる1巡の経過である。/すなわち、Yは、前記の通りK子が起訴された12月14日以降15日、21日、26日と連続して保釈請求をなしたが、いずれも証拠隠滅の恐れがあるために不相当との検事の意見が出され、保釈は実現しなかった。/そのため、12月26日、担当のI検事の事情聴取を受けたYは、K子の保釈の件を頼み、I検事も上司にその旨伝えることを約したのである。I検事は一般的説明をなしたに過ぎない旨弁解するが、取調べ担当検事にそのように言われたYがK子の保釈実現を信じたことは、本件公判におけるYの供述からも明らかである。/Yは、捜査本部からのK子の国選弁護人であるAR弁護士に対する電話連絡と面会日の取り決めという便宜供与を受けた上で、1月5日AR事務所を訪れるのである。/同日、AR事務所を訪れたYは、同弁護士に対し、3回の保釈申請が不許可になっていることを知って渋る同弁護士に対し、「今回は大丈夫だ、検事が間違いなく出すと言っているので保釈申請してくれ、申請さえしてくれればよい」旨申し述べ、弁護士としての常識から、保釈が決まってるなどということはあり得ないと考えた同弁護士による質問に対して、「自分は大きいヤマで現在警察に協力している、協力しなければできない事件なので自分がしゃべらなければ警察が困る、しゃべる代わりに保釈されることになっている、事件に協力するということで検事とは約束ができている、協力する代わりに自分は捕まっても起訴されないし、女房も保釈で出すと検事が約束してくれている」旨Yは説明しているのである。/右説明にはYの絶対の自信が現われており、まさにYが検事と約束ができていると信じていることが表明されているのである。/AR弁護士は、 「取引があるんだからやってみてくれ」というYの申し出に応じ、1月5日12時直前に保釈申請をした(弁第68号証)。/ところが驚くべきことに、同日、K子は保釈が許可された上、釈放されることになったのである。さらにK子の保釈の検事の意見書には保釈相当かつ保釈金200万円と記載されているのである。/弁護士にとって、保釈申請当日に保釈が許可になって釈放されるなどということは異例というより前代未聞と言うべきことであり、さらに保釈相当かつ保釈金額まで記載された検事の意見書など全くお目にかかったことはない。/さらに、指摘すべきことは前述の通り、K子の保釈申請に対しては、それまで証拠隠滅の疑いがあった筈で、年末年始を経たのみでその理由が消滅しているのである。しかも、逮捕が予定されているY自身が身柄引受人になっているのである。/これら一連のYのK子保釈申請の過程は、まさに警察・検察一体となった、Yの供述を得るために、K子の保釈について最大限の便宜を図るべしという完全な意思統一ができていたことを意味するものに他ならない。そして、Yが述べる通り、捜査当局とYとの間に取引が完成していた証左に他ならないのである。」(『一審弁論要旨』より)

捜査当局に勾留された後のY氏が当局からどんなに破格の、また異様きわまる取扱いを受けたかについて、同じく『一審弁論要旨』から該当部分を引く。

「(2) 取調べ過程の異常性
Yは自ら述べる通り、捜査当局から壊れ物に接するような処遇を受けてきた。そして、逮捕・勾留後のYの取調べの過程では異常な事態が続発しているのである。
1) まず最も重要と考えられるのは、接見禁止が付されていないことである。/殺人・死体損壊・遺棄事件、それも4名もの犠牲者が出ている重大事件において、それが共犯事件であれば接見禁止が付せられるのが常識である。とりわけ、本件の如く物証が少なく、1年余も経過し、さらに共謀関係、事件への関与の関係の捜査のために共犯者に接見禁止が付せられるのは、常識というよりも絶対に必要なことであると言わなければならない。/なぜなら、これらを解明するためには、共犯者各人と共犯者以外の関係者を取調べることにより、証拠物の発見や、犯行に関連する会話等がなされているか否かが判明し、右共犯者各自の関与についての客観的な証拠が収集されることになるからである。/このような場合、自由な接見が許されれば、これらの証拠の発見が不可能となるおそれがあるからである。/然るに、Yには一切接見禁止は付せられなかった。まさにこれは捜査当局とYとの間において取引と約束がなされていたことの証左であると共に約束の実現に他ならない。
2) 次に、I検事は、接見施設のない検察庁内の部屋においてYがK子とS子に面会することを許し、むしろ自ら接見するか否かをYに尋ね、これを許しているのである。/また、検事は、YにK子への電話をすることを許し、さらにS子とYを会わせたときは調べ室で会わせ、検事自らと事務官は退席までしているのである。/検事は、取調べの日程があったため偶然であったなどと言うが、このようなことは到底信じられない。/また、一般に検察庁においては、弁護人ですら接見施設のないことを理由に接見を拒否されるのである。/このような取扱いこそまさに便宜供与以外の何物でもないのである。
3) Yは1月下句ころから、約束されていた筈の保釈申請が認められないために、いら立ち、検事に暴言を浴びせ、ふてくされた態度をとるようになり、検事の取調べ室のドアを蹴って「覚えてろ」などの捨てゼリフを言い、さらに保釈と調書への署名との取引を求めるなどしていた。/そして4月1日、保釈に関するやり取りからYは興奮し、署名したばかりの調書を取り上げ、「保釈するつもりはないんだ、それならこの調書を破ってやる」などと言うという事態が発生し、M刑事の電話での説得により、Yの要求通りそれまでの調書のコピーを渡してようやく事をおさめるという一幕も生じたのである。」(『一審弁論要旨』より)

検察庁内でのK子さんとの面会に際して、Y氏はなんと性行為まで許容されている。このことは控訴審の公判で証言台に立ったY氏が弁護人の尋問に答えて自ら明確に肯定しているし、著書にもそのように明記されている。このような実態では、弁護人の次のような判断は無理からぬことといえるだろう。

「…Yの取調べの経過からするならば、捜査当局とYとの間に、Yについては殺人について不問に付す、K子の保釈を約束する、Y自らの処分については死体損壊・遺棄のみの起訴のため、場合によっては起訴猶予もあり得、少なくとも保釈は許可され、執行猶予となる旨の約束がなされていたこと、さらに取調べの条件についてもK子との自由な面会を許し、接見禁止は付けないとのYの要求が通っていることが認められる。/Yにとってはこのような取引をなすことによって、T組の追及から逃れ、事件に関する決着をつけ、最大のメリットとして殺人罪を免れるという極めて大きな利益を得ることになったのである。/そして、このようなYの自信を支えたものが、自分が協力しなければ事件は成立しない、捜査当局はY自らを殺人罪で追及しうる材料を持っていないということであったことは、前述のK子の保釈の依頼の際のAR弁護士との会話から十分に読み取れるのである。/Yの取調べ担当者であったM刑事、I検事はそのような取引は絶対にあり得ないし、当初から殺人罪をはずすというつもりは毛頭なかった、Yは取調べの際は真剣に取調べに応じていた旨証言する。/しかしながら、Y自身は現にそのように考えていたのであるし、そのことはI検事に対する度重なる保釈の要求からも明らかであり、K子の保釈、接見禁止が付かない等の処置によって、Yの捜査当局への信頼も増していったと考えられる。/自らが協力しなければ捜査は進まず、捜査当局も資料を持っていないという自信があったのであり、何よりもYに対する捜査当局側の対応及び保釈が認められなかったことからくるYのふてくされた態度からみるならば、当初の取調べがYと捜査当局側の馴れ合い的な雰囲気で始まっていることは明らかであるし、このような関係あるいはこのようなYの態度であれば、真実は何か、Yが実際にどのような役割を果たしたのか、という真剣な取調べはなされえなかったと考えられるのである。/だからこそ、Yの供述の数々の矛盾も見逃され、Eが所有していた腕時計ロレックスについて、取調べ当初から処分したというYの嘘に騙され続け、後にこれが発見された時も、安易なYの弁解を容易に受け入れてしまっているのである。」(『一審弁論要旨』より)

次に、このような取調べの実態が一審の裁判官の目にはどのように映ったのかを見てみたい。『一審判決文』から抜粋する。

「Y供述の信用性を検討するのに先立ち、まず右Y供述が得られた経緯等について検討しておくこととする。
1 右Y供述が得られた経緯等の概略は、以下のとおりである。
(一) 本件の捜査状況及び逮捕前のYの言動等
(1) 埼玉県警本部は、関根と面識のある数名の者(本件被害者4名を含む。)が行方不明になっており、殺人事件の疑いがあるということで内偵を始め、平成6年2月ころに、浦和地検熊谷支部のI検察官にその旨報告するとともに、引き続き検察庁と連絡を取りつつ捜査を進めていたところ、Yがこれらの事件に関わっている疑いが強まったため、県警本部のM刑事らが同年10月17日にYを任意同行して本件各殺人事件について事情聴取を行った。しかし、Yはこれらの事件への関与を全面的に否定した上、帰宅後まもなく妻K子とともに姿をくらましてしまった。
(2) この事態を承けて、県警本部が更にYの身辺捜査を行ったところ、K子が川越警察署管内で詐欺事件を起こしていることが判明した。そして、その報告を受けたI検察官が地検本庁幹部らに報告して協議した結果、身柄を拘束して捜査するに値する事件であるとの結論に至ったことから、川越警察署がK子の逮捕状を得て同人らの行方を追っていたところ、同年11月24日に張り込み中の東京都内の病院に同人らが現れたことから、K子を逮捕するとともに、Yを事情聴取のため任意同行しようとしたが、同人に逃げられてしまった。しかし、その後、Yから前記M刑事宛てに何回かK子の処遇等についての問い合わせなどの電話が入るようになり、その際本件について供述するかどうか迷っているような様子であったため、Mが「早く真相を話すかどうか決めろ。そうでなければ会っても仕方がない。」などと言って突き放していたところ、同月30日ころになってYから面会を求めてきた。そこで、同年12月1日にM刑事がK刑事とともにYと落ち合った上、近くの東松山警察署に行き、同署で、今後の取調べ日程等について話し合い、同人から、任意の取調べを同月3日から始めることなどについて了承を得た。
(3) 同月3日から、東松山警察署でM刑事らによるYに対する取調べが始まったが、同日、同月4日及び同月7日の取調べでは、「関根を早く逮捕しろ。警察はこの事件をとことんやる気があるのか。」、「関根を一緒に成敗するが、考える時間をくれ。」、「時間が来れば必ず説明する。」などと言って、本件について供述することをためらっていたものの、同月8日の取調べで、各事件について自分が各被害者の死体の損壊遺棄作業に携わったことを自白するに至り、その後も更に詳細な供述を続けるようになった。そして、その間の同月13日に実施されたY立会の現場確認の捜査では、Yは自らの車を運転して捜査員の車を先導しながら、各被害者の死体解体に使用したという包丁や焼却遺棄したという骨片(人骨)等の投棄場所や死体を解体焼却したというY方を案内して回り、その指示した場所からは包丁や骨片らしきものなどの証拠物が発見された。
(4) 一方、I検察官は、同年12月15日ころ、警察から右のような捜査の進展状況について報告を受け、地検本庁の次席検事らと協議した結果、これまでの捜査結果を踏まえて、この段階で強制捜査着手後Yの取調担当検察官となる予定のI検察官自身がYを取り調べてその人物像等を把握しておく必要があるということになったことから、警察を通じてYに連絡を付けてもらい、同月26日、行田署でYに会い、同人に対して「事件について供述することは君自身も罪に問われることになるから覚悟して供述してほしい。」旨告げた上、取り敢えずK事件を中心に取り調べたところ、Yは、「関根は許せない。恐ろしい男だ。このままでは犠牲者が増えるかもしれない。社会正義のため一大決心をした。」などと言って、同事件の概要及び自分の果たした役割等について供述したため、翌27日に再度同人を取り調べた上これを調書化した。右調書作成後、Yは、同検察官に対して、前記詐欺事件で平成6年12月14日浦和地裁川越支部に身柄のまま起訴されていたK子の早期保釈方について「検事の力で何とかしてほしい。」などと訴えた。そして、I検察官は、同日中にYの供述内容等について地検本庁の幹部らに報告し、協議した結果、翌年1月中旬ころ被告人両名及びYを同時に逮捕すること、その逮捕前にYの自宅に対する検証を早急に実施することなどの捜査方針が決まり、県警本部にこれが伝えられた。他方、K子は前記のとおり身柄のまま起訴され、その後Yが再三保釈請求をしたものの、地検川越支部検察官は裁判所からの求意見に対してその都度「不相当」の意見を出し、これらの保釈請求はいずれも却下されていたところ、YはなおもK子の保釈を強く希望し、平成6年12月27日I検察官に前記のように訴えたところ、同検察官はYに対して「自分はK子の事件の担当検事でもないし、裁判官でもないから、保釈になるとか保釈するなどと言うことはできない。」などと断った上、「(K子の)保釈についての希望があったことは上司に伝えておく。」旨Yに話した。そして、同検察官は、その日の地検本庁幹部らに対する前記報告の際に、YがK子の早期保釈を希望していることも併せて報告した。
その後、K子の国選弁護人であるAR弁護士が平成7年1月5日付けで保釈請求をしたところ、裁判所からの求意見に対し、同支部WA検察官は「同意。但し保釈金は200万円が相当と思料する。」との意見を提出し(ちなみに、同意見書には当初は「しかるべく」と記載されていたが、これが抹消されて右意見に変更された。)、K子は右の条件で保釈を許可され、釈放された。
(5) 県警本部は、平成7年1月6日、7日の両日にわたり、死体解体焼却現場である群馬県片品村所在のY方居宅に対し、Yら立会の上で検証を実施し、多数の証拠品も押収した。一方、被告人らの逮捕については、警察から、被告人らを逮捕することが一部のマスコミに漏れそうなので逮捕時期を早めたいとの連絡が地検本庁にあり、地検本庁もこれを了承したことから、結局、当初方針と異なり、被告人両名は平成7年1月5日に逮捕され、Yは右検証が終了した翌日である同月8日に逮捕されるに至った。
(二) 逮捕後のYの供述内容、取調べ時における言動及びこれに対する検察官の対応等
(1) Yは、平成7年1月8日にまずK事件(被疑罪名死体損壊遺棄)で逮捕されその勾留中の同月26日に同罪で浦和地方裁判所に起訴され、次いで、同年2月18日にE・W事件(被疑罪名前同)で再逮捕されてその拘留中の同年3月11日に起訴され、更に同月15日にS事件(被疑罪名前同)で再逮捕されその勾留中の同年4月4日に起訴されたが、これらの被疑事実については、M刑事及びI検察官の取調べに対して終始一貫してこれを認め、極めて詳細な供述をしている。この間、検査官は、Yがこれらの事件について死体損壊遺棄にとどまらず殺人にも関与しているのではないかと疑い、この点についても追及したが、Yは任意取調べの当時と同様殺人関与を強く否定し続けた。
(2) 他方、Yは、K事件で起訴された後は、I検察官に対して、「(自分を)保釈にしてほしい。」などと要求するようになり、これが容れられないことが判明してくると、I検察官によるその後の取調べに際しては反抗的な態度を取ったり暴言を吐いたりするようになり、取調べ自体には真摯に応じていたものの、保釈が認められなかったことについての文句を繰り返し、また時には取調べや調書への署名を拒否したりするようになり、最後のころには、保釈の話を蒸し返し、それが受け入れられないと見るや、「それなら裁判で全部引っ繰り返してやる。」などと言い出したりしたこともあった。
(三) 起訴後の自己の裁判における供述内容、供述態度、本裁判での証言時における供述内容、供述態度
Yは、浦和地裁で聞かれた自らの各死体損壊遺棄被告事件の公判において、起訴事実を全面的に認め、捜査段階の供述と同趣旨の供述を繰り返す一方で、「I検事には証拠さえ出してくれれば何でも言うことを聞いてやると言われていた。」などと、同検察官との間で取引又は密約があったかのような供述をなし、また当裁判所に証人として出廷した際にも、右のような取引があったことをひたすら強調するような供述をする一方で、検察官等に対して極度に挑発的な態度を取るとともに、検察官及び弁護人らから事件に直接関係する事項について質問を受けると、「忘れた。」、「覚えていない。」などと実質的に殆ど証言拒否に近い態度を取り続けた。
2 右に見たように、捜査段階でY供述が得られたことについては複雑な経緯があり、またY自身は本件についで詳細な告白をなしたことに対するいわば見返りとして捜査当局から様々な恩典を与えてもらいたいという思惑を抱き、妻の保釈、自己の保釈等を要求し、自己の保釈が容れられないと見るや、取調検察官に対して反抗的な態度を取ったり暴言を吐いたり、果ては取調べに応じることを拒否しようとするなど、功利的で厚かましい言動に出ていたのである。しかし、その一方で、Yは、検察官に説得されたりして結局取調べには応じており、またその本件各犯行についての供述内容自体は、任意出頭して供述を始めた当初から本人自身の裁判という最終的段階に至るまで終始変わっておらず、当裁判所に証人として出廷し、傲岸不遜極まりない態度で証言した際でさえ、自己の本件各犯行についてのこれまでの供述が虚偽であったなどとは遂に述べることがなかったのである。」(『一審判決文』より)

裁判所は判決において被告・弁護側の主張を完璧に斥け、検察の主張を全面的に採用したわけだが、その裁判所でさえ上記を読むと捜査段階における当局とY氏の関係の異常性を認めているようではある。認めざるをえなかったのだろう。しかしそれにしても、裁判官はここで、Y氏は「自己の本件各犯行についてのこれまでの供述が虚偽であったなどとは遂に述べることがなかったのである。」と、Y氏が法廷で「虚偽であると述べなかった」ことがその供述の真理であることの揺るがぬ裏付けであり証明であるかのように述べているが、これは的外れの判断か、そうでなければ一種の詭弁だと思う。Y氏の立場にたってみれば、このような姿勢は「殺人」の追及から自分を守るための一番確実な方法であろう。当初、検察官が約束していた(もしくは約束したとY氏が信じていた)不起訴処分がなされなかったことにY氏が苛立ちと憎悪の念をもっていたのはたしかだとしても、「殺害を実行したのはYである」と一貫して主張している両被告人とその弁護人の反対尋問に曝されて迂闊なことを口走ったりすれば、せっかく自分の裁判が(Y氏は関根・風間の両被告人とは分離裁判であった。風間被告も関根被告との分離裁判を要請したがきき入れられなかったという。)「死体遺棄・損壊」の罪状のみで結審できそうな気配なのに、とんでもない事態を招きかねない。どこまで検察が庇ってくれるか、または庇い切れるか、知れたものではないのである。Y氏の心情を忖度すれば、「忘れた」「記憶にない」といって事実関係については一切口を開かないに越したことはないだろう。単にそれだけのことではないのだろうか。「供述が虚偽であった」と発言しなかったことがY供述の真実性の証だという裁判官の真意は不明だが、このような論理でいくのなら、風間被告は捜査段階からただの一度も自己の殺害行為を認めたことはなく、その後その供述が虚偽であると認めたこともこれまた一度もないのだから、風間被告のその主張もまた真実性の証になるのではないだろうか。だが、判決文を見るかぎり、裁判官が風間被告の主張に真摯に耳を傾けた痕跡、気配は見出せない。この判決文には、これにかぎらず、呆気にとられるような不可解な認定が他にも多数あると思う。

Y氏の供述調書と著書の内容はなぜこれほど大きく異なるのか
ここでY氏の著書について触れておきたい。3年の実刑判決を受けたY氏は満期で出所した後、『週刊新潮』でこの事件に関する文章を6回にわたって書いている。そしてその連載終了後、これを基にした『共犯者』という本を出版している(新潮社・1999年)。この本は翌2000年には『愛犬家連続殺人』と改題され、著者名も変更されて、今度は角川書店から文庫本として刊行されている。また2003年、一審判決直後には、新潮社出身の作家・蓮見圭一氏の名でY氏の本と同じ内容と思われる『悪魔を憐れむ歌』が出版されている。この本には「『愛犬家連続殺人』を改題し大幅に加筆訂正」との弁が載っているが、一読したところでは、私は先行作品との相違点を見出すことはできなかった。(蓮見氏は『週刊新潮』の連載時か、『共犯者』出版時か、あるいはその両方なのかは不明だが、Y氏のゴーストライターをつとめた可能性が高いと思われる。)
ここでまず取り上げたいのは、Y氏が供述調書で事実として述べ、検察官が法廷でそれを事実に相違ないとしてそのまま主張し、また裁判所が信頼できると判定した、同じ一つの事実が、『週刊新潮』の記事や『愛犬家連続殺人』ではどのように記述されているか、という点である。もし供述調書がY氏の記憶に基づいてありのままに作成されていたのなら、週刊誌や著書でも同様のことが述べられているはずである。たった4、5年の時間の経過しかないのだし、ましてそれは裁判の行方を決定づけた重大な証拠になったのだから、しっかり記憶に刻みこまれているはずである。ところが著書を読んでみると、事実はそうではないのだ。どのように違うか、その相違点について述べてみたい。なお、『週刊新潮』の記事も、『愛犬家連続殺人』も、控訴審で弁護人が証拠請求し、採用されているので、これは裁判の証拠の一つでもある(『愛犬家連続殺人』(弁1号証)、『週刊新潮』抜粋記事(Y告白手記1-6)(弁2号証))。
93年4月20日の佐谷田車庫でのK氏殺害に至る経緯について、一審判決文は「(Yは)平成4年9月ころから関根と親しく付き合うようになり、万吉犬舎にも度々顔を出して、運転免許を持っていない関根の運転手のようなことをしていた」と事件当時のY氏と関根被告との関係に言及した後、Y氏の供述調書に沿った次の認定をしている。

「事件当日も万吉犬舎に行って犬の世話などをしていたところ、午後5時過ぎころになって関根が車庫まで行ってくれと言うので、自分が当日乗って来た車(ミラージュ)に関根を乗せて、午後5時半ころ佐谷田の車庫に行った。そこで初めて関根からKと会う約束をしていることを聞かされた。車庫内で関根と雑談をしていると、30分位してKがアウディに乗ってやって来た。関根とKは車庫の中で立ち話をした後、車庫内に置かれていた外車(ダッジバン)の後部座席に並んで乗り、関根がKにドリンク剤を勧めたりしていた。Kが来てから5分位して、関根が買い物や給油に行って来いなどと言ったので、ミラージュを運転して出かけ、給油をした後買い物をして帰ってきたらKがダッジバンの後部座席で死んでいた。殺害した現場は見ていないが、その時の様子などからして、関根が何らかの毒薬をKに飲ませて殺害したのだと思う。そして関根に「お前もこのようになりたいか。」などと脅され、死体の解体等を手伝うように言われた。それで、関根に命じられるままに死体をミラージュに乗せ、関根とともに片品村の自宅に運搬した。その途中の車内で、関根から「Kのボディを無くするんだから、お互い口を割らない限り警察は手を出せず、絶対に判らない。」などと言われた。また、「(佐谷田の車庫に置いたままになっている)Kの車を博子と一緒にどこかに捨てて来い。博子には事情を話してあるから。」などとも言われた。」(『一審判決文』より)

同じ場面を、Y氏は『愛犬家連続殺人』のなかでこう記している。
「「夕方、佐谷田の車庫でKさんと会うから、お前も同席してくれないか」/翌20日、関根から連絡を受けた俺は片品村から車を飛ばした。言われた通り、夕方の5時に熊谷市佐谷田の車庫に着いたが、車庫のシャッターは3枚とも閉まっていた。1枚のシャッターを半開きにして中を覗くと、関根のダッジの車内で二人が話し込んでいるのが見えた。揉めている様子はなかった。(略)/「Y、ガソリンないだろ。うちのスタンドで入れてこい。帰りに、Kさんにこれと同じ酒を買ってきてくれ」/俺が車庫に着いて5分ほどすると、関根がそう言った。ちょうど渋滞する時間帯だ。関根が契約しているスタンドに行けば、戻ってくるまでに30分はかかる。(略)/案の定、道は込んでいた。ガソリンスタンドに辿り着くだけで20分近くもかかった。(略)/ガソリンを入れ、酒を買って車庫に戻ったのは約40分後だ。再びシャッターを開けて車庫の中を覗くと、Kさんがダッジの後部座席で首をうなだれ、だらんとした格好で頽れていた。(略)/「お前、見て分かるか」(略)/それから、関根の脅しが始まった。(略)/(注:片品村の自宅に着いた後)「お前は、これからいったん熊谷に戻れ。軍手をしていくのを忘れるな。熊谷に一番近いパーキングエリアに着いたら、そこから女房に電話しろ。あいつにはもう全部話を通してある。車庫に着いたらKのアウディに乗り換えて、どこでもいいから都内に乗り捨ててこい。」」(『愛犬家連続殺人』より)

「供述調書」によると、Y氏はその日もいつものように犬の世話などをして万吉犬舎にいたというのだから、それは関根被告と一緒だったということだが、午後5時過ぎになって、関根被告から車庫まで乗せて行ってくれと頼まれて車庫に行き、そこではじめてこれからK氏と会うことを聞かされたという。
しかし、上述のように、著者で述べているところはそうではない。Y氏は関根被告から前もってその日の夕刻車庫でK氏と会う予定があると聞かされ、その同席を頼まれていたため、約束の5時に間に合うように片品村の自宅から一人で車を飛ばしたというのである。車庫に到着した時間も調書とは異なる。調書では5時半到着となっていたのに、著書によると5時だという。さらに大きな、決定的な相違点がある。調書ではY氏と関根被告の車庫到着時にはそこにK氏の姿は影も形もないのに、著書によると、Y氏の到着時、すなわち5時の時点でK氏はすでにそこにいて、ダッジバンの後部座席に関根被告と並んで坐り、酒を飲んでいたというのだ。しかし、その日のK氏が6時過ぎまで勤務先の会社にいたことは証拠上明白なのだ。K氏は退社寸前、同僚と一緒に警報装置をセットしていて、その時間は6時5分である。誤差を1分とったとしても、6時4分か6分、そのあと門扉まで歩く時間が2~3分かかるとのこと(K氏の同僚の実験結果)。そして、走行実験の結果によれば、会社を出発して佐谷田車庫に到着するまでの所要時間は最短で18分58秒であり、最長で20分13秒かかったという。したがって、K氏が佐谷田車庫に到達する時間は、最も早い場合でも18時25分、最も遅い場合だと18時30分となる。K氏の車庫到着は6時30分少し前でしかありえないことが客観的に明らかなのだ。『週刊新潮』の記事や著書における、5時にK氏が車庫に到着していたというY氏の明言は一体何を意味しているのだろう。蓮見氏の著書でもこの記述に変化はない。5時に到着したY氏はバンのなかに関根被告と一緒のK氏を認めたことになっている。この問題は、K氏がこの日の何時に、誰に、どのような経過で殺害されたのかという事件の核心部分に密接にかかわることなので、後日あらためて検討してみたい。

それから、殺害後、遺体を車に乗せて自宅に戻った後、「(佐谷田の車庫に置いたままになっている)Kの車を博子と一緒にどこかに捨てて来い。博子には事情を話してあるから。」と関根被告に言われ、Y氏はミラージュで出発し、途中で風間被告に電話を掛けるのだが、この時の様相は調書と著書とでは大変な相違がある。調書によると、電話に出た風間被告は、
「既に事情を全て知っていた様子で、深夜なのにすぐ電話口に出て、風間の方から待ち合わせ場所を指定してきた。自分が佐谷田の車庫に行って、そこに置いてあったアウディに乗って待ち合わせ場所に行くと、風間は既にそこにクレフで来ていて、「うまくいった(か)。」と声を掛けてきた。風間が、東京のどこでもいいから車を置いて来ようと言うので、自分が先導する形で二台の車で東京に行き、アウディを八重洲の地下駐車場に置き捨てた後、風間の車に乗せてもらって佐谷田の車庫に戻ったが、帰りの道中で風間から「あんたさえ黙っていれば警察に捕まらない。」「証拠がなければ警察に捕まらない。」などと関根と同じようなことを言われた。」(『一審判決文』より)

『検察論告』は、同じ場面を次のように描いている。
「Yの電話に、自宅で待機していた風間は、右電話に出ると、「東松山インターに向かう途中、道の広くなっている所がある。先に行って待っている。」と言った。/合流した際、風間は「うまく行った?Sさん、東京判るでしょう。先に走ってよ。都内のどこでもいいから車を置いてきましょうよ」と言って、東京都内に向かう旨、Yに指示した。/帰りの車中で風間はYに対し「あんたさえ黙っていれば、誰にも判らないし、警察に捕まることはない。」と口止めをした。」(『検察論告』より)
(ところで、風間被告の「あんた」という言葉遣いについて、Y氏は一審の第17回公判の証言で異議を唱えている。「被告人風間は自分のことをSさんと名前を呼ぶ、あんたなんて呼ばれたことは一度もない」と述べているのだ。)

つづいて、上記と同場面が、著書『愛犬家連続殺人』ではどう描かれているか見てみたい。

「「Yです」
「ああ、こんばんは」
俺はこの台詞に困惑させられた。ひょっとしたら、この女は何も知らないのかも知れない。
「奥さんのところに電話するようにって、社長から言われたんですけど」
「じゃあ、待ち合わせしましょうか」
「はい」
「大変だろうけど、我慢してね。何も心配いらないから」
「公園脇に、休憩中の長距離トラックが何台も停まっているはずだから、すぐに分かるわよ」」

次は、待ち合わせ場所で合流した際の描写。

「「こんばんは」と言ったきり、何の指示も与えない。そういう女だ。
「社長から、どこでもいいから都内の駐車場にこの車を捨ててこいって言われました。それが済んだら、すぐに戻って来いって」
「(風間は)先、走って」とだけ言って、クレフに乗り込んだ。
「途中で、アウディのフロアマットを捨ててこいって、社長から言われたんですけど」……
「このゴミ箱に捨ててきてもいいでしょうか」
……俺はトイレにも寄ったが、博子はクレフの車内からじっと俺の方を監視していた。博子がやっと口を関いたのは、佐谷田の車庫に戻ってからだ。
「事故に気をつけて。うちの人をよろしくね」
車庫の前で俺を下ろすと、博子はそう言って、ニヤッと笑った。」

供述調書と著書における二つの証言。この間のあまりに大きな差異には、唖然とさせられる。Y氏は同一時間に相異なる二つの体験をしたかのようだ。裁判官および検察官は捜査段階のY供述につよい信頼性を置いたわけだが、その具体的、象徴的な例を判決文および論告から選ぶと、下記の場面になるだろう。
1) 風間はすぐに電話にでた。(それは、自宅で待機していたからだ。)
2) 合流した際に風間は「うまく行った?Sさん、東京判るでしょう。先に走ってよ。都内のどこでもいいから車を置いてきましょうよ」と言った。
3) 帰りの車中で風間はYに「証拠がなければ警察に捕まることはない。」「あんたさえ黙っていれば、誰にも判らない。」と口止めをした。

上記の3点をY氏の著書における記述と比べてみると、まず1)について著書では「博子はすぐに電話にでた」とは記されているものの、そのことをY氏が異様と感じた様子は何ら見られない。むしろ「Yです。」と名を告げると、「ああ、こんばんは」と返事が返ってきたことに対して、「俺はこの台詞に困惑させられた。ひょっとしたら、この女は何も知らないのかも知れない。」と、風間被告の電話の対応をしごく尋常普通なものに感じたことが述べられていて、これは調書で述べたところとはまったく逆の意味・内容である。
またY氏が風間被告に「奥さんのところに電話するようにって、社長から言われたんですけど」と述べていることも調書との重要な違いだ。判決文は、風間被告がY氏の電話での依頼を深夜であるにもかかわらず、また用件も問うことなく、すぐに引き受けたことは異常な行動であり、これもまた事前にK氏殺害を知っていたからだという。だが、風間被告は、その前日ペットショップで関根被告から「S(Y氏のこと)は俺の仕事でいろいろ動いてもらっているから、Sに用を言われたら動いてくれ」と言われていたので、Y氏の依頼はそのことに関連していると思ったから何ら疑問をもたなかったのだと終始一貫して主張している。ここでY氏が自分のほうから「奥さんのところに電話するようにって、社長から言われたんですけど」と発言していることは、風間被告の前記の主張と符号していることが明らかだろう。
また著書では、風間被告が「大変だろうけど、我慢してね。何も心配いらないから」と述べたことになっているが、これは調書にはなかった発言である。そして、どうだろう、文脈からするといかにも唐突な一言という見方もありえるのではないだろうか。
2)は重要である。合流した風間被告がY氏に述べたとされていた「うまく行った?」が、著書から消えているのだ。この「うまく行った?」という風間被告の発言こそ、検察が関根・風間の事前共謀の証拠としていた重大発言であった。判決文が、風間被告の電話での対応およびその後のアウディ放置行為に関するY供述について、「その内容は極めて具体的で迫真性に富んでいるばかりでなく、何ら不自然不合理な点も存在しない。」と判定しているのも、この「うまく行った?」という風間発言があればこそのはずだった。なのに、肝心のその言葉はどこに行ってしまったのか、著書にはないのである。
一審判決文はまた、「(風間は)Yが現実に東京まで遠征して深夜の駐車場に車を置き捨てるという異常かつその裏に何らかの重大な犯罪が起きていることを窺知させる行動に及んでいるのに、最後までその理由すら一切聞こうともしないまま行動を共にしている」とも述べているが、夜の11時、11時半を深夜と認識するか否かは人それぞれの感覚によるし、生活様式や労働形態にもよるだろう。長年「愛犬ジャーナル」を発行し、また自らもブリーダーのプロであるKK氏は、法廷で風間被告のこの時間帯での外出を異常と感じるかどうかを尋ねられて、「ブリーダーは犬のお産や病気等で深夜行動することが多いので、何ら異常さは感じない」と証言している。判決文は、都内への車の運搬について頭から「車を置き捨てる」行為と決めてかかったり、「Yの当夜の要求とその後の行動は、既に何らかの重大な犯罪が起きていること及びその犯跡隠蔽のためにYが動いていることを明瞭に指し示しているのであって、風間がそれに全く気が付かなかったなどということはおよそ考えられないといってよい。」と判定しているが、私などはどちらかといえば裁判官のこの解釈のほうに異様さを感じる。車の運搬についていえば、「捨てに行く」とは考えず、「返しに行く」と思ったという風間被告の捉え方のほうが普通ではないだろうか。またこのような依頼をされた時点でただちに「重大犯罪の発生」を想像するとすれば、むしろそのほうが特異ではないだろうか。「最後までその理由すら一切聞こうともしないまま行動を共にしている」点についていえば、風間被告の一審の弁護人は『弁論要旨』で「それが被告人関根の用事であることは判明していたのであり、離婚後は被告人関根に逆らわないように気をつけながら、同人から徐々に遠ざかろうとしていた被告人風間にとって、特に被告人関根やYがいかなる目的をもって、どのような行動をなしているかに興味がないことはむしろ自然である。」と述べている。Y氏によると風間被告はもともと寡黙ということだし、この振る舞いが特に異常なものとは私にも思えない。
3)の「証拠がなければ警察に捕まることはない。」「あんたさえ黙っていれば、誰にも判らない。」と風間被告がY氏に述べたとされていた発言も、きれいに著書から消えている。新たに挿入されているのは、「事故に気をつけて。うちの人をよろしくね」という発言である。
この事件で、なんら物的証拠のない風間被告の殺人行為の決め手とされているのは、捜査段階でのY氏の供述のみである。関根被告も、「すべて被告人風間の言いなりの自分は、本件においても被告人風間の言いなりにやった」と、取調べの途中から「風間主犯論」を述べはじめ、今もその主張を堅持してはいるが、彼は公判廷でさえその場でたちまち露顕するような矛盾した証言をなし、またそれをめまぐるしく変転させているので、その信用性には裁判官も検察官もほとんど重きをおいていない。風間被告の死刑判決はY供述を唯一の根拠としている。しかし、上記で見たような有り様では、肝心要のY供述の信憑性とはどの程度のものであり、その信用性とはどういう性質のものだろうか。

そのうえ、これだけではないのである。もともと、Y氏は、徹底して証言拒否を貫いた一審の公判廷でも、風間被告の殺害行為についての尋問には、下記のようにそれを否定する証言をしていた。

「Yからすれば、被告人風間に対し、何ら悪感情を持っていたわけではないし、あくまで自分の身代わりとして共犯に取り込む供述をしたが、Y自身の刑事裁判は「死体損壊・遺棄」で当初の目的を達成させたことから、今後殺人等でむし返されることはないと確認し、被告人風間に対する同情心と良心の呵責を抱き、次の様な証言をしたのである。
弁護人-「これは非常に危険な綱渡りなんですけれど、もう一度聞きますが、K事件に関して、風間被告人が車の運搬だけを認めて、殺人、死体損壊・遺棄については、自分はしていませんと、この裁判で言っているのです。その主張について、どう思うか」
Y-「本人が言ってんだから、間違いないでしょう。本人が言ってんだから、それで合ってるでしょう」
弁護人-「Eさん、Wさんの方の事件・・・・・」
Y-「私は、博子さんは無罪だと思います。言いたいことは、それだけです。」
「私は、博子さんは無罪だと思いますと言ったんです。全部ひっくるめて。」
このやり取りは、Yが本件に対する証言の中で唯一きっぱりと述べた部分であり、又被告人風間の罪体に関する重要な部分であり、Yが何故に証言拒否を繰り返す中で、この部分について明確に証言したのか、これは正にYのぎりぎりの「良心」であったと確信するものである。」(『一審弁論要旨』より)

しかし、Y氏が風間被告の殺害行為を疑いの余地なくはっきりと否定したのは、すでに社会に戻っていたY氏が証人として出廷した控訴審の二度の公判であった。経過を見ると、

「風間弁護人の犯罪事実に関連する質問に対しては、ひたすら「覚えてません」と言い続け、やはり(一審と)同様に「あんただれの弁護士ですか。」と言い出し、さらには「あんたの質問には答えられません。」と答え、なぜかと間かれると「ばかばかしいからです。」と答え、最後には「(博子を助けたいなら)だったら、あんた、弁護士辞めなさい。」と言う。それについてなぜかと聞かれると「あんたじゃ駄目だわ、無理だわ。ほかの人にしなさい。」と答えて、それについてなんで駄目かと聞かれると「私がそう思うだけです。」、(その理由はと聞かれ)「それも分からないようなら、あんた、うちに帰りなさい。」(さらにその理由を聞かれ)「もう弁護士辞めたほうがいいですよ。」と答えた。結局、事実関係については、ひたすら弁護士を馬鹿にし、非難し、質問をはぐらかして証言を終えたのである。」(『控訴審弁論要旨』より)

このように自分自身の犯罪事実についての尋問(たとえば、関根被告の弁護人は「Kさんの首を絞めましたね」と尋ねている)に対しては、一審同様に証言拒否の姿勢を崩さなかったY氏は、風間被告については、「殺人はしていない」と明言している。
「人も殺してないのに何で死刑判決が出るの」、浦和の裁判所で話すことができなかった中身は今話せますか?と弁護人に尋ねられて、「今話したらめちゃくちゃになります」、「何で博子がここにいんのですよ、問題は。殺人事件も何もやってないのに何でこの場にいるかですよ。それで釈放しないのはおかしいですよ。おれが出てるんだから。もうこの裁判は、そこから根本がおかしいですよ。」「人を殺せる人かどうか、顔を見れば分かるでしょう。」(『公判速記録』より)
Y氏は、「(風間被告が)死刑判決ときいて、最初びっくりした」とも述べている。自身の供述が風間被告の死刑判決を呼び寄せたとの認識はつよくもっているようである。

  11月5日 追記
(注) 被告人は最高裁の裁判には出席できないと訴訟規則で定められているそうです。
 刑事訴訟規則
(被告人の移送・法第409条)
 第265条 上告審においては、公判期日を指定すべき場合においても、被告人の移送は、これを必要としない

注1)文中、人名は一部仮名を用いています。
  2)改行部分を一部/として表記しています。

2009.06.02 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (15) トラックバック (0) l top
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