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前回に引き続き、『カラマーゾフの兄弟』新訳(亀山訳)の感想を述べていこうと思う。2回目の今日は、第4巻の感想である。

『カラマーゾフの兄弟 4』  (第12刷)

   第10編 少年たち

新訳 p57 小粒ながらいきいきとした灰色の目は、不敵な輝きを帯びていたし、ときとして、強烈な感情に燃え立った。

原訳 下・p44 小さいが、生きいきした灰色の目はものおじせず、感情に燃えあがることがしばしばあった。

小沼訳 Ⅲ・p32 灰色の眼はあまり大きくはないが、しかしいきいきとしていて、そのまなざしは大胆で、はげしい感情にパッと燃えたつことがあった。

江川訳 p588 小さいが生き生きとした灰色の目は大胆不敵な感じで、しばしばはげしい感情に燃え立つことがあった。

感想 目を「小粒な(がら)」と形容するのは珍しいと思ったので、先行訳を見てみた。「小さいが」と「大きくはないが」とあった。「小粒」という表現でも誤りではないのだろうが、どうも違和感が残る。これはコーリャという少年が、大胆さや我慢づよさの際立つ性格であるためにそのように感じるのかも知れない。


新訳 p90  立て、ペレズヴォン、うまくやれ、うまくな!」コーリャは立ち上がって叫んだ。犬は後ろ足で立ち上がると、イリューシャのベッドのまん前でちんちんを披露した。
 だれひとり予期しないことが起こった。イリューシャはぎくりとしやっとのことで全身で前に乗り出すと、ふいにペレズヴォンのほうに屈みこみ、息もたえだえに犬を眺めやった
「これは……ジューチカだ!」彼はふいに、苦しみと幸せのあまり、潰れたような声で叫んだ。
「じゃ、きみはなんだと思ってたんだい?」甲高い幸せそうな声でコーリャは力いっぱい叫ぶと、犬にむかって屈みこみ、イリューシャのほうに軽く抱き寄せてみせた

原訳 下・p65   「ジャンプしろ、ぺレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後肢で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身を曲げると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた

小沼訳 Ⅲ・p52   「とびはねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸を見せるんだ!」椅子からとびあがってコーリャはどなった。犬は後足で立ってイリューシャのベッドのまん前でちんちんをした。するとまったく思いがけないことが起った。イリューシャがぎくりと身をふるわせると力いっぱいからだを前へ乗りだすようにして、ペレズヴォンのほうへかがみこんで、まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめたのである
「これは…‥ジューチカだ!」と苦痛と幸福感のためにひびわれたような声で、彼は不意に叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ったんだい?」とコーリャは甲走った、いかにも嬉しそうな声をせいいっぱい張りあげた。そして屈みこんで犬をつかまえると、イリューシャに抱きあげて見せた

江川訳 p601   「跳ねろ、ペレズヴォン、芸だ! 芸をするんだ!」コーリャはその場から躍りあがって叫んだ。犬は後足で立ちあがり、イリューシャの寝床の前でちんちんをして見せた。と、だれもがまったく予期しなかったことが起った。イリューシャが急にびくりと震えたかと思うと、いきなりはげしく身体を乗り出して、ペレズヴォンのほうにかがみ込み、まるで息もとまりそうな面持で、その犬を見つめたのである
「これ……ジューチカだ!」苦痛と幸福にかすれたような声で、ふいに彼は叫んだ。
「じゃ、きみはなんだと思ったんだ?」グラソートキンは高くひびく、幸福そうな声で力いっぱいこう叫ぶと、かがみ込んで、犬を抱きあげ、イリューシャの目の前へ突きつけた

感想 この場面は、コーリャが病床のイリューシャを訪れ、劇的なやり方でイリューシャやみんなにペレズヴォンを披露しているところだが、新訳には違和感をおぼえるところが大変多かった。たとえば、「立つ」ことと「跳ねる」こととは、全然異なる動作なのだから、コーリャのペレズヴォンへの命令もコーリャ自身の動きも、単に「立つ」なのか、それとも「飛び跳ねる行為をする」なのか、明確であってほしい。先行訳がすべて「跳ねる」と表現しているところを見ると、原作もそう書かれているのではないだろうか。また、先行訳にあるイリューシャの身の「ふるえ」が、新訳には見あたらない。イリューシャの「身を前に乗り出す」動作を、原・小沼訳は「力いっぱい」、江川訳は「はげしく」と表現しているが、新訳は「やっとのことで」と記している。これでは先行訳と新訳とでは原文の一つの単語について異なる解釈をしていることになるのではないかと思う。新訳の「息もたえだえに犬を眺めやった。」という文についても同じことがいえるのではないだろうか。原訳「息もとまるような様子で犬を見つめた」、小沼訳「まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめた」、江川訳「息もとまりそうな面持で、その犬を見つめた」などの先行訳と、新訳の「息もたえだえに犬を眺めやった」とでは、犬を見るイリューシャの姿が明白に異なる。小沼訳の「前後を忘れたようにじっと」は、原・江川訳の「息もとまるような(とまりそうな)」という表現とは異なるが、それでも、我を忘れたかのような様子で食い入るように犬を見つめるイリューシャの気配は充分に感じとれる。この部分を改めて引用してみる。

新訳 ぎくりとし、やっとのことで全身で前に乗り出すと、ふいにペレズヴォンのほうに屈みこみ、息もたえだえに犬を眺めやった

原訳 びくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身を曲げると、息もとまるような様子で犬を見つめた

小沼訳 ぎくりと身をふるわせると、力いっぱいからだを前へ乗りだすようにして、ペレズヴォンのほうへかがみこんで、まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめた

江川訳 急にびくりと震えたかと思うと、いきなりはげしく身体を乗り出して、ペレズヴォンのほうにかがみ込み、まるで息もとまりそうな面持で、その犬を見つめた

「やっとのことで」「息もたえだえに」「眺めやった」などの言葉からは、このときイリューシャを貫いているはずの極限の緊張感が感じられず、もどかしくも奇異な思いがした。
「苦しみと幸せのあまり、潰れたような声で叫んだ」という文の「のあまり」「潰れた」にも実は違和感がある。イリューシャの叫び声じたいがその時のイリューシャの「苦しみと幸せ」をそのまま直截にあらわしていたと思うので「のあまり」はどうだろうか。人の口から「潰れたような声」がでる場合と「かすれた声」がでる場合とでは経験からすると異なるように感じられ、この場合、「潰れた」は不適切なようにも思えるのだが。また、「犬にむかって屈みこみ、イリューシャのほうに軽く抱き寄せてみせた」という描写も一見正確であるかのように見えるけれども、たぶん、犬を抱きかかえるコーリャの動作が記述されていないためだと思われるが、読んでいて、「屈みこんで犬をつかまえると、イリューシャに抱きあげて見せた。」(小沼訳)や「かがみ込んで、犬を抱きあげ、イリューシャの目の前へ突きつけた。」(江川訳)のようには、コーリャの動きがくっきり見えるようには目に浮かびあがらず、曖昧である。

以上のように、下線を沢山付し、新訳への疑問を多数述べることになってしまったが、私は新訳のこの場面を読む前に、亀山氏が、『解題』で、

「犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」

と述べている文章を読んでいた。亀山氏のこの解釈については、木下和郎氏のブログ「連絡船」のこの記事で大変丁寧な分析・洞察がなされていて、私はこの文章を拝見し、ようやく胸のつかえがおりる思いがした。もしペレズヴォンがジューチカでないのだとすると、「だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか」という亀山氏の念頭にあるのは少年コーリャのようだが、もしそうだとすると、『カラマーゾフの兄弟』における少年たちの物語は、これまで私たちが読んできたものとはがらりと様相を異にした、たとえようもなく陰惨な物語ということになる。『カラマーゾフの兄弟』に描かれたコーリャという少年の言動のどこを見てもそのような行為が導きだされる芽は皆無のはずで、私には、むしろ作品中のコーリャの肖像にこれほど不似合いな縁遠い行為はないように思える。一体どうして亀山氏にそのような発想が生じえたのか不思議である。

上述のような重大な読解が、他ならぬこの本の新翻訳者によってなされているのに、雑誌や新聞で話題にもならず、議論もなされない、「寂として声なし」状態は、あんまりである。新聞・雑誌における批評欄の存在意義も疑われる。私などは『カラマーゾフの兄弟』を読んで、亀山氏のような理解をする人はほとんどいないだろうと思っているのだが、実はそうではないのだろうか? それとも、皆さんは、この『カラマーゾフの兄弟』という作品においては、少年や犬のことなどどっちにしてもそう大した問題ではないと考えているのだろうか? 

最近は翻訳に限らず、出版社や編集者には、暗黙のうちに批評内容を統制しようという傾向が、少なくとも自由な批判や活発な議論を歓迎しない傾向があるように思う。ここ4、5年、言論の場で、佐藤優氏の言説に対する批判がタブー視されてきたのがその典型と思うが、このような空気がいつの間にか出版界に浸透し、全体を覆い尽くし、文芸の世界もその例外ではなくなっているのではないか。翻訳に関する些細なエピソードで、何という題名の文章だったか、またそれがどの表題の本に収められていたかもちょっと思い出せないのだが、内田百間がこんなことを書いているのを読んだことがある。あるとき、出版されたばかりの英文の翻訳書が誤訳博物館とでもいうべき姿を呈していたそうで、そのことが仲間うちでしきりに話の種になっていたそうである。何でも「アイヌ」が「エイヌー」と訳されたりもしていたそうだが、ある夜更け、鈴木三重吉が百間も含めて5、6人の後輩を率いて街を歩いているとき、その三重吉がある家の門灯の真下に立った。そして「おーい、ここが誤訳の大家のお住まいだぞ」と大声をあげたそうである。この出来事は多分大正時代のことではなかったかと思うが、鈴木三重吉は、百間によると、漱石の門下でただ一人、ごろつきめいた味をもった人だったそうだから、このようなことも起きたのだろう。この文章を読んだのは、もう二十年ほど前のことだが、私はその時、その翻訳者が気の毒なような、可笑しいような気持ちになったが、ただ、誤訳の指摘に対し、当の翻訳者が「人格攻撃だ」と述べたり、また発行元の出版社や編集者が「瑣末な誤訳論争に与する気はない」とか「異論があるのなら、ご自分で翻訳なさったらよろしいのでは」と開き直ったりする、『赤と黒』や『カラマーゾフの兄弟』への誤訳の指摘に対してみられたような発言がなされるとはまったく想像しなかった。実際はどうだったのか分からないが、読者の耳にそのような話がもれ伝わってくることはなかったし、また無意識ではあるが、作品の内容・出来映えへの批評に対する出版側のそのような反応は、作品と読者を蔑ろにしていることに他ならず、出版文化の衰退にしか結びつかないはずのそのような言動はありえないことと思いこんでいたのだと思う。

さて、亀山氏の訳の話に戻るが、上述のように、新訳の犬に関する箇所は、先行訳に比べて特に明晰さを欠いたすっきりしない訳のように思う。こういう結果になるのは、亀山氏がペレズヴォンをジューチカとは別の犬だとする、そのような思考法と関連しているのではないかと感じる。しかし、それでも、新訳を見ると、ご自身、二匹の犬が同一としか読み取れない訳をしているのではないだろうか。以下に、何点かその例をあげる。

① 毛むくじゃらでかなり大きめの汚らしいこの犬は、ひと月ほどまえ、コーリャがどこからかいきなり拾ってきたものだった。家のなかに連れこみ、どういうわけか友だちのだれにも見せず、部屋のなかで内緒にして飼っていたのである。/コーリャはこの犬を恐ろしくしごき、ありとあらゆる芸当を仕込んだ。(p21)

この①は、いよいよ病床のイリューシャを訪ねる日の朝の叙述である。コーリャはスムーロフと一緒にスネギリョフ家に向かったが、家の中に入る前にまずアリョーシャを門まで呼び出した。アリョーシャは、コーリャの訪問を知り嬉しげにやってきたが、コーリャが犬を伴っているのをみて、その犬はジューチカではないのかとこう訊く。

② 「……で、その犬、あなたの犬ですか?」
「ぼくのです、ペレズヴォンっていいます」
「ジューチカじゃなくて?」 アリョーシャは、残念そうにコーリャの目を見やった。
「すると、あの犬、やっぱりあのままいなくなってしまったんですか?」
「あなたがたがみんな、ジューチカを望んでらっしゃることは知っていますよ、話はすべて聞いてますから」そう言うと、コーリヤは謎めいた笑みを浮かべた。(p60)

③ 「ほんとうに、ほんとうにあなたは、あのジューチカを探しだせなかったんですか?(略)あの子は病気だというのに、涙ながらにぼくのいるまえで、父親に三度もこう繰り返して言ったんです。『ぼくが病気なのは、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、これは、神さまがぼくを罰しているしるしなんだ』とね。その考えから逃れられないんですね! でも、もしいま、あのジューチカが見つかり、まだ死んでなくて、生きているところを見せてやれたら、あの子も喜びのあまり、生き返るような気がするんです。ぼくたちみんな、あなたに望みをかけていました」
「教えてほしいんですが、いったいどんな理由で、このぼくがジューチカを探しだすって、ほかのだれでもなく、このぼくが探しだすなんて、期待を抱いたんです?
異常な好奇心にかられてコーリャがたずねた。(p69)

①については、上述の「連絡船」で懇切かつ具体的な反論・批判がなされている。そこで指摘されているように、実際、「ひと月ほどまえ、コーリャがどこからかいきなり拾ってきた」「コーリャはこの犬を恐ろしくしごき、ありとあらゆる芸当を仕込んだ」というのに、なお「片目をつぶし」たり「耳に裂け目を入れた」りする時間や余裕はどこにもないことは明白であろう。②と③だが、これはジューチカの行方について訊ねるアリョーシャに対するコーリャの反応であり、態度である。この日が初対面ではあるが、すでにコーリャがアリョーシャにふかい関心と尊敬の念をもっていることは明らかであり、そういうアリョーシャにコーリャが嘘をついたり、ごまかしを口にしたりすると考えるほうがおかしいのではないだろうか。また、コーリャの態度にそのような不自然さがあるのなら、それを見抜かないアリョーシャだろうか。何よりも、亀山氏は、イリューシャの「これは……ジューチカだ!」という声を、「苦しみと幸せのあまり」と、ちゃんと「幸せ」という言葉を記し、またそのイリューシャの言葉をうけたコーリャの「じゃ、きみはなんだと思ってたんだい?」との叫びについて、「甲高い幸せそうな声で力いっぱい叫ぶと」と記してもいる。ペレズヴォンがジューチカであることを一瞬にしてさとったイリューシャの喜びを見て、「幸せそうな声」を「力いっぱい」張り上げる少年の背後に、亀山氏が『解題』で述べているような酷たらしい行為が隠されているはずはなく、このような想像はあまりにも低劣に過ぎ、これでは亀山氏の思いはどうあれ、結果としてドストエフスキーと作品を貶めることになっているのではないだろうか。


新訳 p100   「クラソートキン、これ、母にプレゼントしてもいいですか?」イリューシャは祈るような表情で、クラソートキンに顔を向けた。自分へのプレゼントを人にあげるのが怒られるのではないか、そう恐れているかのようだった。

原訳 下・p71  「ねえ、クラソートキン、ママにこれあげてもいい?」せっかくのプレゼントを他人にやったりして、気をわるくせぬかと案ずるように、突然彼は祈るような顔つきでコーリャに話しかけた。

小沼訳 Ⅲ・p57  「クラソートキン、ママにやってもいいでしょう?」と彼はだしぬけに哀願するようにクラソートキンのほうを振り向いた。せっかくくれたものをひとにやったりして、気を悪くしないかと心配でならないといった顔つきであった。

江川訳 p605  「クラソートキン、これを母ちゃんにプレゼントしてもいいかしら?」彼はふいにクラソートキンのほうへ祈るような顔を向けた。自分への贈りものを人にやってしまって気を悪くはしないだろうかと、いかにも心配そうな様子だった。

感想 新訳に、微妙な違和感をおぼえた。イリューシャはせっかくの自分への好意を無にしたというようにクラソートキンが感じるのではないかということを心配し、それを気遣っているのだから、「怒られるのではないかと恐れる」より、「案ずる」「心配する」の訳のほうがいいのではないだろうか。


新訳 p112  ええ、世界史です。人類がおかした、いくつもの愚行を研究してるんです。

原訳 下・p79 ええ、世界史をです。あれは人類の一連の愚行の研究にすぎませんからね。

小沼訳 Ⅲ・p64 ええ、世界歴史ですよ。人間どもの愚行の連続の研究にすぎませんからね。

江川訳 p610 ええ、世界史をです。人類の犯した幾多の愚行の研究にすぎませんからね。

感想 上は、世界史の研究についてのコーリャの意見の表明だが、「いくつもの愚行を研究」中の「いくつもの」は不適切な訳ではないかと思う。「長期にわたる」「多数の」という意味をもった言葉がなければならないだろう。


新訳 p114  だってそうでしょう、古典は各国語に訳されている。つまり、古典の研究にラテン語なんてまるきり必要ないわけなので、もっぱら治安の手段なんです。能力を鈍らせるためなんです。

原訳 下・p81 だって考えてもごらんなさいよ、古典作家はすべてあらゆる国語に翻訳されてるでしょう。だとすればラテン語が必修になったのは、古典作家の研究のためなどじゃ全然なくて、もっぱら警察の学生対策と、才能を鈍らせるためじゃありませんか。

小沼訳 Ⅲ・p66 だってそうじゃありませんか、古典は残らずあらゆる国語に翻訳されていますからね。つまり、古典研究のためにはラテン語なんてものはぜんぜん必要がありませんよ。だからあんなものは警察的な目的をもった手段のために、才能を鈍らせるために必要とされているにすぎません。

江川訳 p610 だってそうじゃないですか、だって古典は全部各国語に訳されているんですよ、とすれば、ラテン語は古典の研究のために必要なんじゃ全然なくって、ただただ警察の取締りと才能の鈍化のためだけに必要なんですよ。

感想 すぐ上の例と同じく、これもコーリャの発言だが、この場合は「各国語」だけでは意味が正確に通じないのではないだろうか。「各国語」に、先行訳がそうしているように「すべて」「残らず」「全部」などの言葉を加えることが必要とされていると思う。


   第11編 兄イワン

新訳 p151  さっきからもう煮立ってるの、あなたを待ってたせいでね

原訳 下・p106 もうさっきからコーヒーが煮立って、あなたを待ってますわ

小沼訳 Ⅲ・p98 もうさっきからコーヒーが煮えくりかえって、あんたを待ってるのよ

江川訳 p625 ずっと前からちんちんたぎって、あんたの来るのを待っていたみたいよ

感想 「あなたを待ってたせいでね」と訳されたために、せっかくのグルーシェニカの機智に富んだ表現の魅力が台無しになってしまっていると感じる。


新訳 p168 あなたに嘘はいいません。イワンはカテリーナさんに惚れてはいません、ぼくはそう思います。

原訳 下・p117 僕は嘘は言いませんよ。イワンはカテリーナ・イワーノブナに恋してなんかいません、ぼくはそう思うな。

小沼訳 Ⅲ・p88 僕は嘘なんか言いませんよ。イワンはカテリーナ・イワーノブナにほれてなんかいません、僕はそう思いますね。

江川訳 p632 ぼくは正直に言いますけど、イワンはカチェリーナさんに惚れたりしちゃいませんよ、ぼくはそう思うな。

感想 「あなたに嘘はいいません」と「僕は嘘は言いません」とではアリョーシャの発言の趣旨、意味するものが異なるはずなので、こういう箇所の訳は正確であってほしい。


新訳 p231 おまえには信じられんだろう、アレクセイ、おれがどんなに生きたいと思っているか、存在していたい、意識を保ちたいという欲求が、いいか、このぼろぼろに剥げた壁のなかの、このおれのなかで生まれたんだぞ!

原訳 下・p161 アリョーシャ、俺が今どんなに生きたいと望んでいるか、お前には信じられんだろう。生存し、認識したいというどんなに熱烈な欲求が、ほかならぬ漆喰の剥げたこの壁の中で、俺の心に生れたことだろう!

小沼訳 Ⅲ・p137 お前には信じられないかもしれないがね、アレクセイ、おれはいまどんなに行きたいと思っているだろう、このはげっちょろけな壁の中に閉じこめられてはじめて、生存と意識を求める渇望が、おれの内部に新しく生まれてきたんだ!

江川訳 p657 おまえは本当にしないだろうけれどな、アリョーシャ、おれはいまどんなに生きたいと思っているだろう、ほかでもないこのはげちょろけの壁の中で、おれの胸には生存し、意識したいという渇望が生れてきたんだ!

感想 監獄の壁のなかでドミートリーに新しく生まれたものなのだから、その欲求は「意識を保ちたい」ではなく、「認識したい」「意識したい」という訳のほうが適切ではないかと思うのだが、どうだろうか。


新訳 p234 イワンには神がいない。やつには理想がある。おれなんて足元にもおよばない。なのに、あいつ……

原訳 下・p163 イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模がちがうやつがさ。それでも黙っているんだ。

小沼訳 Ⅲ・p139 イワンには神がない。あれの持っているのは思想だけなんだ。とてもおれなんかには考えられないことさ。しかしあいつは口をつぐんで……

江川訳 p632 イワンには神がない。その代りに思想がある。おれなんかとは桁ちがいの思想だ。ところが、あいつは黙っている

感想 上と同様、監獄でドミートリーがアリョーシャに話をきかせている場面だが、ドミートリーが自分とは桁ちがいの規模でイワンが持っていると述べるものを「理想」と言ったのでは、趣旨と意味が異なることになるのではないだろうか。


新訳 p243 ヒステリックなぐらいに言うんだ。肝心なのは金だが、逃亡資金として1万ルーブル出す、とな。で、アメリカ行きには2万かかるが、おれたちは1万ルーブルで立派にそれを実現してみせるとな

原訳 下・p170 肝心なのは金だけど、イワンのやつは、脱走の資金に1万、アメリカ行きには2万ルーブル出すし、1万ルーブルで立派に脱走の手筈をととのえてやる、と言ってるよ

小沼訳 Ⅲ・p146 一番肝心なのは金だが、1万ルーブリを脱走費として用立てよう。アメリカまでは2万ルーブリかかるが、1万ルーブリで立派に逃亡させて見せると言うんだ

江川訳 p662 問題は金だが、脱走の費用として1万ルーブリ、アメリカ行きに2万ルーブリ出そう、1万ルーブリで脱走は立派に成功させて見せると言うんだ

感想 上と同じ場面。ドミートリーが、イワンが立てた脱走計画についてアリョーシャに説明しているところである。イワンが出すと言っている金額は、全部で3万。しかし、「脱走」もしくは「逃亡」を、新訳のように「それを」と記すと、読者に、イワンがアメリカ行きと逃亡資金の両方を合わせて1万で(3万ではなく)すませて見せると述べているように受け取られる恐れがあるのではないだろうか。


新訳 p256~259  イワンはふいに立ちどまった。
「じゃあ、おまえは、いったいだれが殺したっていうんだね?」明らかに、どこか冷ややかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく高慢なひびきが聞きとれるようだった。
「兄さんは、ご自分でだれか知ってるでしょう」低いしみじみとした声でアリョーシャは言った。
「だれなんだ? 例のくだらん作り話のことを言ってるのか、気がへんになったあの癲癇やみのばかの仕業だとかいう? スメルジャコフ犯人説のことだが?」
 アリョーシャはふと、全身にふるえが来ているのを感じた。
「兄さんは、ご自分でだれか、知ってるでしょう」力なく、言葉が口をついて出た。息が切れていた。
「いったい、だれなんだ、だれなんだ?」ほとんど凶暴な調子で、イワンは叫んでいた。それまでの沈着さが、一瞬にして消し飛んでいた。
ぼくが知っているのは、ひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです
「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。三十秒ほど沈黙がつづいた。
「おれじゃないことぐらい、自分でもわかってるさ、何を寝ぼけたこと言ってる?」
青ざめた顔にゆがんだ笑みを浮かべて、イワンは言った。彼は、食い入るようにアリョーシャの顔を見つめた。二人は、ふたたび街灯の下に立っていた。
「いいえ、イワン、あなたはなんどか、自分が犯人だと言い聞かせてきたはずです」
「いつ、おれがそんなことを言った?……おれはモスクワにいたんだぞ……いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
「恐ろしかったこの二ケ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」あいかわらず低い声で、一語一語区切りながら、アリョーシャはつづけた。とはいえその口ぶりには、もうわれを忘れ、自分の意志というより、何か逆らうに逆らえない命令にしたがっているかのような趣きが感じられた。
「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです! ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」
 二人とも口をつぐんだ。沈黙のなかで、長い一分間が流れた。二人は立ったまま、ずっとたがいの目を見つめあっていた。二人とも真っ青だった。

原訳 下・p179~181  イワンは突然立ちどまった。
「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか倣慢なひびきさえあった。
「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
「だれだ? 例の、気のふれた白痴の癲癇病みとやらいう、たわごとか? スメルジャコフ説かい?」
 アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。
「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど狂暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘付けになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? …俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」
すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
 どちらも沈黙した。この沈黙はまる一分もの長い間つづいた。二人とも立ちどまり、終始相手の目を見つめていた。どちらも蒼白だった。

小沼訳 Ⅲ・p154~155  イワン・フョードロヴィッチは急に立ちどまった。
「それじゃお前は誰が殺したと言うんだ?」と彼は見たところ妙に冷やかな調子でたずねたが、その質問の調子にはなにか傲慢とも思える響きが感じられた。
「それが誰であるかはにいさんにはわかってるでしょう」とアリョーシャは低い、胸にしみとおるような声で言った。  
 「誰だ? あの気違いの癲癇もちの馬鹿がやったっていうでたらめの話か? あのスメルジャコフのことか?」
 アリョーシャは急に全身がふるえているのを感じた。
「にいさんにはわかってるじゃありませんか」という言葉が力なく彼の口からもれた。彼は息をあえがせていた。
「いったい誰だ、誰なんだ?」とイワンは荒々しいともいえる調子で叫んだ。それまでのひかえ目な調子などはたちまちどこかへ消えてしまった。
僕の知ってるのはただこれだけです」とアリョーシャは相変らずほとんどささやくような調子で言った。「おとうさんを殺したのはにいさんじゃない
「『にいさんじゃない』だって!にいさんじゃないっていうのはどういうことだ?」イワンはその場に立ちすくんだ。
「おとうさんを殺したのはにいさんじゃない、にいさんじやない!」とアリョーシャはきっぱりとした声でくりかえした。
 三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「そうさ、おれでないことぐらいは自分でもちゃんとわかってる、なにをねぼけてるんだ?」と蒼白いゆがんだような微笑を浮かべてイワンは言った。彼は食いいるようにアリョーシャの顔を見つめた。ふたりはまた街灯のそばに立っていた。
「いいえ、イワン、あなたは何度も、人殺しはおれだと自分で自分に言ったはずです」
「いつおれがそんなことを言った!……おれはモスクワヘ行って留守だったじゃないか……。いつおれがそんなことを言った?」とイワンはすっかり度を失ってつぶやくように言った。
「にいさんはこの恐ろしいふた月のあいだ、ひとりきりになると、何度となく自分でそう自分に言い聞かせたはずです」とアリョーシャは相変らず低い声で、だがはっきりと言葉をくぎるようにしてつづけた。しかしそれは、もはや自分の意志によるものではなく、なにか自分でもどうにもならない命令に従って、無夢中で言ってぃるようであった。「にいさんは自分を責めて、親殺しの犯人は自分以外の何者でもないと認めていたのです。しかし殺したのはにいさんじゃありません、それはにいさんの思いちがいです。犯人はにいさんじゃありません、いいですか、にいさんじゃありません!僕はにいさんにこのことを言うために神様からつかわされたのです」
 ふたりは口をつぐんだ。この沈黙はまる一分問もつづいた。ふたりはその場に立ちすくんだまま、互いにじっと相手の眼を見つめていた。ふたりともまっさおな顔をしていた。

江川訳 p667~668  イワンはふいに足を止めた。
「じゃ、きみに言わせると、人殺しはだれなんだい?」イワンはことさら冷やかな調子でたずねた。その問の調子には何か妙にかさにかかったようなものさえ感じられた。
「だれかってことは、兄さんが自分で知っています」低い、心にしみ通るような声でアリョーシャは言った。
「だれだい? 例の気が変になった癲癇白痴がやったっていう作り話かい? スメルジャコフの話かい?」
 アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。
「兄さんが自分で知っているはずです」言葉が力なく彼の口をついて出た。彼は息を切らせていた。
「だからだれだい、だれなんだ?」ほとんど狂暴ともいえる口調になって、イワンは声を高めた。それまでの抑制がたちまち消え失せた。
「ぼくは一つのことだけを知っています」アリョーシャは相変らずひそひそとささやくような声でつづけた。「お父さんを殺したのは、あなたじゃない
「《あなたじゃない》だって! あなたじゃないとはどういうことだ?」イワンはその場に棒立ちになった。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、兄さんじゃないんです!」アリョーシャはきっぱりとくり返した。
 三十秒あまりも沈黙がつづいた。
「ぼくがやったのじゃないくらい、自分でわかっているさ、何をうわごとを言っているんだ?」青ざめた顔にゆがんだ薄笑いを浮かべて、イワンが言った。彼はアリョーシャの顔を吸い寄せられるように見つめていた。二人はまた街灯の近くへ来ていた。
「ちがいますね、イワン、兄さんは何度も自分に言っていますよ、殺したのはおれだって」
「いつそんなことを言ったんだ?……ぼくはモスクワにいたじゃないか……いつ言ったんだ?」イワンは完全にうろたえてつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになったとき、兄さんは何度も自分にそう言ったんです」一語一語を区切った静かなもの言いをくずさずにアリョーシャはつづけた。しかしその話しぶりはもうまったく無我夢中の感じで、自分の意志ではなく、何か自分にはどうしようもない命令に従ってでもいるような調子であった。「兄さんは自分を責めて、人殺しは自分以外ではありえないと自認したんです。でも、殺したのはあなたじゃない、兄さんは思いちがいをしている、人殺しは、あなたじゃないんです、いいですか、あなたじゃないんです! ぼくは神さまに遣わされて、兄さんにこのことを言いに来たんです」
 二人は口をつぐんだ。しばらくつづいたこの沈黙はとりわけ長いものに感ぜられた。二人はじっと立ったまま、お互いの目を見つめ合っていた。二人ともまっ青な顔をしていた。

感想 上記のように、先行訳も含めて長々と引用したが(注:引用文中の太字部分は、訳文において強調のための傍点がふられていた箇所である。亀山訳にはこの強調は施されていない)、アリョーシャが苦悩するイワンに対して放った「あなたじゃない」という言葉をめぐる新訳の問題点は木下豊房氏のサイトで、また「連絡船」で、何度もとりあらげれている。亀山氏の訳本をどのように評価するかについて、完全に中心課題となっていると言っていいのではないかと思う。拙いながら、私も感じたことを以下に述べてみる。

新訳においては、「いったい、だれなんだ、だれなんだ?」と、イワンがアリョーシャにほとんど凶暴な調子で叫んだのに対し、アリョーシャは次のように述べたことになっている。

「ぼくが知っているのは、ひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」

先行訳では、「ぼくが知っているのは、ひとつ」という旨のアリョーシャの言葉は、その後文の「あなたじゃない」を強調するための補佐的なはたらきをしている。ところが新訳では、後文が「あなたじゃない」ではなく「あなたじゃないってことだけです」と訳されたために、「ぼくが知っているのは、ひとつ」は、「…ことだけです」を強調する役目をして、「あなたじゃない」という言葉の千鈞の重みを軽減する結果をまねいている。そもそも、上記の引用文をみればわかるように、先行訳ではことごとく「あなたじゃない」というアリョーシャの言葉に強調のための傍点がふられている。木下豊房氏によると、原文におけるこの箇所は強調のためのイタリック体になっているのだという。亀山氏の訳文では、この強調は上記の引用文のとおり完璧に無視されているのだが、しかしそのような不自然な行為は、訳文にそのまま跳ね返ってしまっているように思える。というのも、「あなたじゃないってことだけです」というアリョーシャの言葉に対し、イワンは即座に「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」と、「…ことだけです」という言葉を無視して喋っている。イワンの耳には、「…ことだけです」の言葉は聞こえなかったかのような反応なのだ。これは、「…ことだけです」という言葉があるために、緊迫したこの場面がひどく不自然でちぐはぐなものになっているということである。イワンの「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」という、この鋭く烈しい反応は、とても「……ことだけです」というような、どこか独白めいた言葉を耳にした人の反応とは思えない。また、イワンのこの言葉に対し、

「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。

というのだから、「あなたじゃないってことだけです」の不自然さはますますふかまる。そして、なおもアリョーシャは、

「恐ろしかったこの二ケ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」、「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです!」

と我を忘れたように断定的にイワンに語りかけた上、

「ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」

とまで述べているのである。このように、イワンとアリョーシャの間のこの緊迫感にみちた会話のすべては、「あなたじゃない」をめぐって取り交わされているのであり、そこでのアリョーシャの発言はすべて、自分が最初に口にした「あなたじゃない」という言葉がそのとおりにイワンの心に届き、そっくりそのまま受けとめてもらうための必死の言葉の積み重ねであることは確かである。ここから遡って、アリョーシャが「あなたじゃない」と断言するのではなく、新訳のように「あなたじゃないってことだけです」と発言した可能性があるかどうかを考えてみると、それがありえないことがよくわかる。「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです!」「ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」と、我を忘れたようにイワンに述べるアリョーシャが、「あなたじゃないってことだけです」のような内向的かつどこか曖昧さの漂う発言をすることがどうしてありえるだろう。このように筋の展開、会話の内容から見ても、「あなたじゃないってことだけです」という言葉は、物語の展開に甚だしく水をさすだけの、非常に不自然な訳だと思う。


新訳 p260  「兄さん」声を震わせながら、アリョーシャはまた切り出した。「ぼくが兄さんにこのことを言ったのは、兄さんは、ぼくの言葉を信じてくれるからです、そのことがわかってるからです。《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ。さっきのは、神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです。たとえ、いまこの瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むことになろうとです……」

原訳 下・p182  「兄さん」アリョーシャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです、たとえ今の瞬間から、兄さんが僕を永久に憎むようになったとしても……」

小沼訳 Ⅲ・p156  「にいさん」とアリョーシャはまたふるえる声で言いだした。「僕がいまあんなことを言ったのは、にいさんなら僕の言葉を信じてくれるにちがいないと思ったからです。この『にいさんじゃない』という言葉を、僕は自分の命にかけて言ったんですよ! いいですか、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂に吹きこんで、それをにいさんに向って言わせたのです。たとえ、この瞬間から永久ににいさんに憎まれることになったにしても…」

江川訳 p669  「兄さん」アリョーシャはまた震える声で言った。「ぼくがあんなことを言ったのは、兄さんがぼくの言うことを本気にしてくれると思ったからなんです、ぼくにはそれがわかるんですよ。あなたじゃない、といういまの言葉を、ぼくは生涯をかけて言ったつもりなんです。いいですか、全生涯をかけて言ったんです。神さまがこの言葉をぼくの魂に吹き込んで、言わせてくださったんですよ、たとえいまこの瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むようになるとしても……」        

感想  「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!」。この訳文は、すでにさまざまに指摘されているように、本当に奇妙な文である。《あなたじゃない》という言葉を、当の相手が死ぬまで信じつづけるとは、普通の文章としても奇妙で、誰も含意を理解できないのではないだろうか。《あなたじゃない》という言葉が読む者の心に沁み入ってくるのは、その言葉が、先行訳にあるように、人の「一生」、「命」、「生涯」をかけて、発せられたからこそではないだろうか。

亀山氏は、『解題』のなかで次のように述べている。

「 さらに、アリョーシャの次の言葉にも注目したい。居心地が悪いという以上に、やはり凄絶としか言いようがないセリフである。
「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ。」
 さらにアリョーシャは、この言葉は神が語れと自分に要求したのだ、とまで告げる。
(「神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです」)。 
こうなれば、アリョーシャの言葉はもはや、「殺したのはあなたです」と言っているのと等しい重みを担うものとなる。(略)
 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。(略)
 また、イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つとともに、じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである。彼が思わず、自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。」

亀山氏は、「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!」と、どうみても意味不明の訳をなし、その訳を基礎にして、「こうなれば、アリョーシャの言葉はもはや、「殺したのはあなたです」と言っているのと等しい重みを担うことになる」などと、これも第三者にはどのような感覚や論法から導きだしたのか一向に理解できないことを述べている。なぜ、どのようにして、「アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった」という結論が導きだされたのだろうか? 普通に読めば、アリョーシャの《あなたじゃない》という言葉は、アリョーシャが心の底からそのように信じ、だからこそ一生をかけてその言葉を口にしえたのだと思うのだが。少なくとも私はそのように読んだ。また、亀山氏は、アリョーシャが、「殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた」「悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告した」とも述べているが、この時のアリョーシャは、イワンが悪魔の訪れに悩まされていることをまだ知らないはずだ。亀山氏は、自身で下記のように記述している。

「 二人とも口をつぐんだ。沈黙のなかで、長い一分間が流れた。二人は立ったまま、ずっとたがいの目を見つめあっていた。二人とも真っ青だった。ふいにイワンが全身をふるわせ、アリョーシャの肩をぐいとつかんだ。
「おまえ、おれの家に来てたな!」歯ぎしりしながら彼はささやくように言った。
「やつが夜中うちに来ていたとき、おまえもいたんだな……白状しろ……おまえ、やつの姿を見たんだろ、見たんだろ?」
「だれのことを言ってるんです……ミーチャですか?」けげんそうな顔で、アリョーシャはたずねた。
「ミーチャじゃない、あんな人でなし、糞くらえだ!」夢中になってイワンは叫んだ。
「おまえ、やつがおれの家に通っているのを、知ってるのか? どうやって知った、言ってみろ!」
「やつってだれのことです? 兄さんがだれのことを言ってるのか、ぼくにはわからないんです」アリョーシャはもう怖気づいて口ごもった。」(第4巻 p259)

したがって、イワンが「自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。」という亀山氏の言葉は無意味であると共に誤りとしか言えないように思う。


新訳 p262 イワンはこの二ヶ月間で、奇妙なぐらいうるさくなくなり、一人きりでいるのをひどく好むようになった。

原訳 下・p183 イワンはこのふた月の間に、異常なくらい手数がかからなくなり、まったく一人きりにされているのを非常に好んだ。

小沼訳 Ⅲ・p157 イワン・フョードロヴィッチはこの二カ月というもの、不思議なくらい女中の手をわずらわせなくなって、ひとりきりでいるのを好むようになっていた。

江川訳 p670 イワンはこの二カ月の間、奇妙なくらい口やかましいところがなくなり、一人きりでいるのを好むようになった。

感想  「うるさくなくなり」でも意味が通じないことはないかも知れないが、正確さと巧みさに欠けているように感じる。


新訳 p264 ついでながら、兄のドミートリーに対するイワンの感情についても、この場かぎりということにして、二、三述べておくことにする。

原訳 下・p184 長兄ドミートリーに対するイワンの感情について、一遍だけふた言ばかり述べておくと、イワンはこの兄をまったくきらいで、……

小沼訳 Ⅲ・p159 兄のドミートリー・フョードロヴィッチに対するイワンの感情について、ほんのひとことだけ述べておくが、彼はミーチャのことなぞ……

江川訳 p671 ついでだから、兄のドミートリーに対するイワンの気持について、一度かぎり、ほんのひと言ふれておこう。

感想 「この場かぎり」という言い方は、普通、その話の中身が真実性の保証を欠いているとか、外聞をはばかるような話題の場合に用いられることが多いように思えるので、「一遍だけ」、「一度かぎり」という訳のほうがいいのではないだろうか。


新訳 p316 イワンはだまって相手を見ていた。元の下男が自分に対して放った、この思いがけない口調、前代未聞といってよいほどの、どこか恐ろしく傲慢な物言いひとつとっても、もはや尋常ではなかった。

原訳 下・p220 イワンは無言で相手を眺めた。以前の召使が彼に対して今用いた、かつてないほどまったく横柄な、思いもかけない口調だけをとっても、異常なことだった。

小沼訳 Ⅲ・p191 イワンは黙って相手の顔を見た。こうした彼の思いもよらない調子だけでも、かつての自分の家の下男がいま主人に向って言った、なんだか常識はずれなひどく横柄な言葉の調子だけでも、異常なものであった。

江川訳 p691 イワンは無言で彼を見つめていた。この思いがけない語調、かつての従僕がいま彼に向かって話しかけたときの、とてつもなく横柄な語調、それだけでもただごとではなかった。

感想 新訳の「前代未聞」の用法にはやや違和感をおぼえた。スメルジャコフが今目の前でみせている物言いの横柄さが、もしイワンがかつて、いつ、いかなる場所においても耳にしたことがないほどの世に稀な程度とでもいうのなら「前代未聞」でいいと思うが、この場合のスメルジャコフの口調の横柄さについて、イワンはスメルジャコフとの間におけるこれまでの自分の経験に限定して述べているようだから、この「前代未聞」は少しどうかという気がする。


新訳 p317~318  「……殺したのは、あなたですよ、あなたが主犯なんです。ぼくは、ただあなたの手足を務めただけにすぎません。ぼくは、召使リチャルダって役どころにすぎないんでしてね。あれを実行したのも、あなたの言葉にしたがったまでのことなんです」
「実行しただと? じゃあ、ほんとうにおまえが殺したのか?」イワンは、思わずぞっとなった。脳みその何かが、まるでぴくりとしたかのようで、彼は悪寒で小きざみに全身を震わせはじめた。そこでようやくスメルジャコフも、今さらながら驚いた様子で、相手の顔をまじまじと見やった。どうやら、イワンのあまりに真剣な驚きように、あらためてショックを受けたものらしかった。
「それじゃあ、ほんとうに、何もご存じなかったんで?」にやりと顔をゆがめて、彼はうさんくさそうにつぶやいた。イワンはそのまま彼を見つめつづけた。まるで舌が回らなくなったかのようだった。すると、ふいにまた頭のなかでさっきの歌がひびきわたった。

ああ、イワンは都に行きました
わたし、あの人あきらめます!

原訳 下・p221  (略) 「実行した?じゃ、ほんとにお前が殺したのか?」イワンはぞっとした。
脳の中で何かが動揺したかのようで、全身がぞくぞくと小刻みにふるえだした。今度はスメルジャコフのほうがびっくりして相手を見つめた。どうやら、イワンの恐怖の真剣さにやっとショックを受けたようだった。
「それじゃ本当に何もご存じなかったので?」イワンの目を見つめて、ゆがんだ薄笑いをうかベながら、彼は信じかねるようにねちっこい口調で言った。
 イワンはなおも相手を眺めていた。舌がしびれてしまったかのようだった。

  ああ、ワーニカはピーテルに行っちゃった、
  あたしは彼を待ったりしない!

 突然、頭の中であの歌の文句がひびいた。

小沼訳 Ⅲ・p192~193  (略) 「実行した? じゃ、殺したのはきさまなのか?」イワンは思わずぞっとなった。
 まるで脳震盪でも起こしたようになって、彼の全身は悪寒のために小刻みにふるえだした。そのときになってはじめてスメルジャコフも、改めてびっくりしたように彼の顔を見た。おそらく、イワンの驚き方があまりにも真剣なものだったので、思わずはっとしたものにちがいなかった。
「じゃ、あなたは本当になにもご存じなかったので?」と皮肉な微笑を浮かべてイワンの顔を見つめながら、眉唾ものだというようにスメルジャコフはつぶやいた。
 イワンはなおも彼の顔を見つめていたが、まるで舌がしびれたようになって口をきくこともできなかった。

  ワーニカはピーテルへ行っちゃった、
  だれがあんなやつ待つものか

 という歌声がとつぜん彼の頭のなかでひびきわたった。

江川訳 p691~692  (略) 「実行した? じゃ、ほんとうにおまえが殺したのか?」イワンは思わずぞっとなった。
 脳に震盪でも起きたように、ふいに彼の全身が小きざみな悪寒にがたがたと震えはじめた。そのときになって、スメルジャコフもさすがに驚いたように彼の顔を見た。イワンのあまりに正直なおびえぶりに、彼もようやく度肝を抜かれたらしい。
「じゃ、あなたはほんとうに何もご存じなかったんですか?」彼は信じられぬといった面持でこうつぶやき、ゆがんだ薄笑いを浮かべて相手の目を見返した。
 イワンはなおも彼を見つめたきり、まるで舌を抜かれでもしたようだった。

  えい、ワーニャは都へ旅に出た、
  あんなおとこう、だれが待とう?

 歌の文句が、突然、頭の中でひびきわたった。

感想  新訳の「あらためてショックを受けた」はおかしいのではないだろうか。原訳のように「やっと」、小沼、江川訳の「はじめて」のほうがよいように思う(小沼訳には、「はじめて」の後に「改めて」とある。分かりにくいが、この「改めて」はスメルジャコフがイワンの顔を見る動作にかかるのだろうか?)。スメルジャコフはつい今まで、フョードル殺害後のこれまでのイワンの態度について、事前の共謀など全然なかったかのような演技をしていると考えていた。ところが、このときのイワンの烈しい驚きようを見て、「やっと」「はじめて」はっとしたのだと思う。また、新訳の「ふいにまた頭のなかでさっきの歌がひびきわたった」の「また」はおかしい。イワンはさっき確かに歌を聞いたが、それは道で直接自分の耳で聞いたのであり、頭のなかで歌がひびきわたったのはこのときが初めてのはずである。


10月23・25日に、一部(新訳p90およびp256~259の感想)の文章を加筆・修正しました。
2009.10.22 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
今年に入ってから、新聞や雑誌、またネット上でも、「エレサレム賞」の受賞や、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についての好意的なコメントなどで、村上春樹の名前が目につくことが多かった。折から新作の「1Q84」という小説が評判なので、めったに読まない小説家なのだが、市の図書館から借りられるなら借りて読んでみようかと思いたち、ネットで検索してみると、なんと、「1Q84-a novel-BOOK1」は1900件余、「BOOK2」も1600件を越す予約が入っていた。100くらいは入っているのではないかという漠然とした予想をしていたところ、1000を越しているとは! 両巻合わせて予約数3500である。予約欄にこんな膨大な数が記されているのを初めて見た。「エルサレム賞」受賞の件が広く社会的話題になったことも影響しているのかも知れないが、そうでなくても、とにかくよく読まれる現代随一の人気作家なのだ。購入する気はないので、あきらめて2、3年後、ゆっくり借りて読めるようになるまで待つことにしよう。そのときはもう読む気が失せてしまっているのではないかという心配がないでもないが…。

私は昔から村上春樹という小説家にさほど関心がなく、作品もデビュー作の「風の歌を聴け」を含めてせいぜい3、4作しか読んでいない。そのせいか、村上春樹に関してこれまでで一番印象に残っていることといえば、彼がオウム事件を題材にして書いたのが、小説ではなく、「アンダーグラウンド」という、サリンの被害者を取材したインタビュー集だったということである。事件の被害者を取材することは全然悪いことでも批判されることでもない。まして相手方が納得して取材を受けたに違いないのだから、第三者が疑問を挟むのもヘンかも知れないのだが、しかし村上春樹を一個の小説家としてみれば、「なぜ?」という素朴な疑問も浮かぶ。東京の地下鉄で引き起こされた、あの衝撃的なサリン事件の意味も核心もすべて犯罪を計画し実行したオウム真理教の側が握っている。事件からさほど時日も経ないあの時点で被害者を対象にオウム事件に関する文章を書こうとする小説家のその発想と意図がよく理解できなかった。村上春樹はよくドストエフスキーについて語っているが、ドストエフスキーは同時代の犯罪-ネチャーエフ事件に遭遇して「悪霊」を書いたし、このような例はスタンダールの「赤と黒」など枚挙に暇がない。被害者にインタビューした村上春樹の文章を読んで、そのことが思い浮かび、この事件を取り上げるのなら、なぜ、オウム真理教自体を対象としないのだろう、という気がしたのだった。「アンダーグラウンド」刊行の後、オウムの信者にもインタビュー取材をしているが、上の疑問を解消してくれるものではなかった。

最近、村上春樹は、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についてもほうぼうで意見を述べているようで、毎日新聞の取材では、亀山訳について「従来の訳とは全然雰囲気が違って楽しかったです」と述べていた。この「楽しかった」という言葉は私には腑に落ちなかった。亀山訳は、読んでいてむしろストレスを感じることが多かったからだが、それでなくても、この新訳についてはずいぶん前から専門家と読者の双方から重大な誤訳が具体的な根拠をもって指摘されている折りであり、こういう場合は、「どのように」「どのような箇所が」楽しかったのか、ぜひその理由まであげた上で話してほしいと思う。取材する側、原稿を依頼する側にも、それに対応するだけの責任が求められているのではないだろうか。

村上春樹は、自身の「エルサレム賞」受賞について、今年2月、現地イスラエルで下記のように述べている。

「彼ら(管理人注:エルサレム賞の辞退を勧めた人達)は、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

この文章は、ブログ「漂流博士」の管理人の方が、イェディオット紙に載ったインタビューを日本語に翻訳されたとのことである。それを引用させていただいたのだが、この方によると、「写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが…」ということなので、新聞での発言内容は完璧に精確と決めつけるわけにはいかないのかもしれないが、「受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。」との発言を実際にしたのだとしたら、これはまったくいただけないと思う。それでは、サルトルのノーベル賞辞退、大岡昇平の芸術院会員入会の辞退などはどういうことになるだろう。サルトルや大岡昇平の選択は、「安全で、都合のいい内面の世界に閉じこも」ったということになるのだろうか。「僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」との発言にも欺瞞があるのではないかと思う。村上春樹の読者の中にも、賞の辞退を望んだ人は大勢いたはずだ。賞の辞退を進言する人間は自分の読者にはいないと思いたいのかも知れないが、そんなことはない。パレスチナでも村上春樹の作品はよく読まれているそうだが、その読者の大半は賞を辞退してほしいと思っただろう。読者に対する敬意、というのなら、そのような読者に対する敬意はどうなる? 村上春樹は発言に際して、大半はエルサレム賞受賞を喜んだに違いないイスラエルの読者しか念頭においていないかのようである。だから「賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。」などという言葉もでるのだと思うが、しかし、上述の発言が全体として現しているのは、受賞を動かすことのできない絶対条件とした場合にしか導きだされない強引な理屈の印象ではないだろうか。村上春樹は、また、次の発言もしている。

「僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。」

あまりにも発言の時期が悪い。『カラマーゾフの兄弟』で、イワンは罪のない子どもがいわれもなくこの世でうける痛ましい話を沢山蒐集していて、大審問官を物語る前にその話をアリョーシャにつぎつぎと聞かせている。イワンは、ガザの学校や病院を狙いすましたイスラエルの空爆をみて、それをノートに書きこまないはずがないと思われるが、上記の発言をみるかぎり、あのとき、村上春樹はそのような連想をはたらかせることはなかったように感じる。しかし人に倍して想像力豊かなはずの小説家であり、上記のように「僕はドストエフスキーの大ファンです。」と断言している人にそんなことがありえるのだろうか? そのようなことに関する考えをそのうち忌憚なく語ってもらえればと思う。


10月19日、出だしの文を加筆・修正しました。
2009.10.17 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
亀山郁夫氏の翻訳による『カラマーゾフの兄弟』の感想をこれから3回にわたって述べてみるが、先行訳もふくめて作品からの引用が多いために、思いがけず長文になってしまった(今回の分は第2巻についての感想だけなのだが)。実は、新訳全5巻のうち、私が読み通しているのは、3巻――2・4・5巻だけである。第1巻については、木下豊房氏のサイトで「検証」「点検」を読んでいたせいだと思うが、手にとって読んでみようという気持ちにどうしてもなれず、はじめから回避した。第3巻も未読である。しかしながら、コーリャ、イリューシャをはじめとした少年たち、およびスネギリョフ一家が登場する場面の ほぼはすべてが、読了したこの第2・4・5巻に収まっているので、感想を述べるにあたって、あまり支障はないのではないかと思う。というのも、私の場合、亀山氏が「解題」その他で披瀝している少年や犬に関する見解 ―― 犬のジューチカとペレズヴォンとは同一の犬ではないのではないかという説や、コーリャとイリューシャの人物像についての突飛な(と思える)見方など(この件を考えるうえで「読書案内」のブログ「連絡船」は大変参考になる。また学ぶことは他にも多い) ―― に大変驚いたり、疑問を感じることが多く、自然、具体的には、少年や犬のでてくる場面についての感想を多くもつことになったからであるが、したがってこれらの箇所だけは可能なかぎり丁寧に読むよう心がけた。

3巻を読み終えての感想だが、全体として大雑把な訳文だという印象がつよい。旧訳に比べて速く読めるという話をよく聞くが、その原因は、文体が大雑把だからではないだろうか。また「分かりやすい」という意見が多いというのも、そのことと関係があるのではないか。私自身は亀山訳を「分かりやすい」とは感じなかったので、この意見は実感的には理解しにくいのだが、筋書きを理解することを主な目的として読みすすめるのであれば、これでも支障はないのかも知れない。そのように考えると、先行訳を読むことと、新訳を読むこととでは、読書体験の内容・中身が異なるのではないかという気がする。率直にいうと、新訳は、熟読玩味には相応しくない文体ではないかと思う。そういう読み方をするには細部に違和感や疑問をおぼえる箇所が多すきると感じられた。

前にも述べたことだが、私はまったくロシア語を(も)解さないし、また必ずしもドストエフスキーの熱心な愛読者というわけでもない。もしも誰かに文学者の中で好きな作家を数名あげよと言われることがあったとしたら、その場合でも、ドストエフスキーの名はださないような気がする。ただし、最も偉大な文学者は誰と思うかと訊かれたら、いの一番にドストエフスキーの名をあげることになるのではないかとは思う。そういうことで、私の場合、ドストエフスキーの作品はいつも身辺においておき、始終手にとって読むというわけではないが、それでも時々無性に読みたくなるというタイプの作家である。たとえば、つい2、3年前にも「死の家の記録」と「地下室の手記」を本棚から引っ張りだして読んでいる。ドストエフスキーは、私にとってもやはりなくてはならない偉大かつ大切な文学者であることはたしかである。

さて、感想文の書き方だが、コーリャやイリューシャらの「少年たち」が登場する場面を主な対象に、新訳(亀山訳)の気になった箇所をとりあげ、その部分を先行訳と比較対照しながら具体的に感想を記していくことにした。このやり方なら、私にもどうにか読後感らしきものを述べることができそうに思えたので。先行訳は、原卓也訳(新潮文庫)、江川卓訳(集英社)のほかに小沼文彦訳(筑摩書房)も引用した。小沼訳は30年ほど前、最初に『カラマーゾフの兄弟』を読んだときの訳本であり、愛着があるので用いた。原訳は昨年から今年にかけて通読し、江川訳は最近になって読了した。まず、新訳を読んで気になった部分 ―― 違和感や疑問をおぼえた部分の文章を引用し、その箇所に下線を付したが、先行訳にも、相応する箇所に同じように下線を付した。感想はその後に記した。本のページ番号は訳者名のすぐ後に付している。


『カラマーゾフの兄弟 2』 (第14刷)

   第4編 錯乱

新訳
 p11 体力の許すかぎり、長老は説教をつづけた。その声は弱々しかったが、それでもまだかなり張りがあった。「何年もみなさんに説教し、何年も声に出してみなさんにお話ししてきましたからね、こうして話をすることがすっかり身についてしまいましたよ。ですから、愛する神父さま、兄弟たち、口を開けばおのずと説教になり、体がこんなに弱りきったいまも、お話しするのより、口をつぐんでいるほうがむずかしいくらいなんです」周りにつめかけてくる人々を感慨深げに見まわしながら、長老はそうおどけてみせた

原訳 上・p307~308  周囲に集まった人々を感動の目で眺めやりながら、長老は冗談を言った

小沼訳 Ⅰ・p270 まわりに集った人たちを嬉しそうに見まわしながら、彼はこんな冗談を言うのであった

江川訳 p181 周囲に集まった人たちを感動の面持で見まわしながら、長老はこんな軽口もとばした

感想 新訳の「周りにつめかけてくる人々」だと、現に人が部屋に次々と入りつつある光景を想像させる。その中で長老が「おどけてみせた」かのように読めるので、先行訳の「集った」「集まった」が誤解の余地がなくてよいと思う。「つめかけている人々」としたほうがよかったのではないだろうか。
「おどけてみせた」は滑稽味をつよく感じさせる表現だが、長老の人柄、当該発言の内容、発言者である長老の死が目前に迫った場面であることを考え合わせると、これには違和感を覚える。「冗談を言う」「軽口をとばした」のほうが適切ではないかと思う。


新訳 p14  アリョーシャがわずかのあいだ庵室を離れることになったとき、庵室内部とその周りにひしめく修道僧たちを包みこむ強い興奮と期待の念に、彼は圧倒される思いがした。その期待は、ある人たちにとってはほとんど不安に満ちたものだったが、またあの人たちにとっては晴れがましい歓びに溢れていた。だれもが、長老の逝去のあとすみやかに起こるはずの、何かしら偉大なものを待ち受けていたのだ。

原訳 上・p310 その期待はある人々の間ではほとんど不安に近く、他の人々の間では厳粛なものだった

小沼訳 Ⅰ・p273 その期待はある人びとのあいだではほとんど不安に近く、また他の人びとのあいだではおごそかなものであった

江川訳 p183 その期待はある者たちのところではほとんど不安に近いものに、他の者たちのところでは勝利感に似たものとなっていた

感想 「晴れがましい歓びに溢れていた」という表現からは、一点の曇りもない晴れやかな情景がイメージされ、この場面にあるにちがいないはずの緊張感が完全に欠如しているように感じられて、違和感をおぼえた。


新訳 p29  そればかりか、彼(オブドールスクから来た修道僧)は前々から、つまりこの修道院を訪れる前から、人づてでしか知らなかった長老制につよい偏見を抱き、ほかの多くの人々の尻馬に乗ってこれを有害な新制度と決めつけていたのである。

原訳 上・p320 そればかりではなく、彼はこの修道院にくる以前からすでに、それまで話でしか知らなかった長老制度に対してひどく偏見をいだき、他の多くの人にならって有害な新制度と頭から決めてかかっていたのである。

小沼訳 Ⅰ・p282 またそればかりではなく、彼はこの僧院にやってくるずっと以前から、それまでは話にしか聞いていなかった長老制度というものに対して、大きな偏見をいだいて、多くの他の人たちの意見に従って、頭から有害な新制度であるときめこんでいたのである。

江川訳 p159 そのうえ彼は、まだこの僧院にやって来る以前から長老制度に対して大きな偏見を持っていた。もっとも、これまではいろいろな風説でこの制度を知っていただけだったが、多くの人のひそみにならって断然それを有害な新制度だと考えていたのである。

感想 これは語り手の言葉であるが、この作品の語り手は、このような場合に、「尻馬に乗って」というような、否定的な主観がつよくあらわれる表現は用いないのではないだろうか。


新訳 p95 で、そのひどい目にあった人のことを調べてみたら、苗字はスネギリョフといって、たいそう貧しい人だってことがわかりました。勤め先でなにか悪いことをしてクビになったらしいんですが、それはあなたにお話しできませんわ。いまその人は家族をかかえ、それも病気の子どもたちと、どうも少し頭のおかしい奥さんがいっしょという不幸な家族をかかえて、おそろしく貧乏な暮らしをされているんだそうです。
 その人、もうだいぶ昔からこの町に住んでいて、なにかの仕事をしていて、どこかで筆耕の仕事なんかなさっていたのですが、ここにきて急に一銭も払ってもらえなくなったんだそうです。そこでわたし、あなたに目をつけたってわけ……つまり、わたし、考えてたんです……わたしが何かわけもわからず、混乱してしまって……ええと、アレクセイさん、わたしがあなたに頼みたかったのは……あなたはほんとうに優しい方だから、あの人のところへ出かけていって、なんとか口実をみつけて、中に入って、つまり、その二等大尉のおうちにですよ……ああ、わたし、すっかりしどろもどろになってしまって……で、デリケートに、注意深く……そう、あなたじゃなくちゃできないようなやりかたで(アリョーシャは急に顔が赤くなった)……その方にこのお見舞い金を、ほらここに二百ルーブルありますわ、これを渡していただきたいの。きっと受けとってくださると思います……つまり、受けとるように説得していただきたいんです……だめかしら、どうでしょう?

原訳 上・p366~367 苗字はスネギリョフといいますの。勤め先で何か落度があって、馘にされたんだそうですけれど、あたくしにはそれはとても話せませんわ。
あたくし、あなたをちらと見て……つまり、こう思いましたの。あたくし、どうしたのかしら、なんだか混乱してしまって。いえね、あなたにお頼みしようと思ったんですの、アレクセイ・フョードロウィチ、あなたはほんとに気立てのやさしい方ですもの。

小沼訳 Ⅰ・p324~325 なにか勤務上のことで落ち度があって、免職になったのですが、その事情をお話しすることはできません。
わたしはあなたのお顔を見て……それでつまり考えたのですけれど――

江川訳 p216 なんでも勤務上のことで落ち度があって、頸になったんだそうですが、そこのところはうまく説明できません。
それで、ふとあなたのお顔を見ていて……つまり、わたし考えたんです――

感想1 カテリーナ・イワーノヴナが、スネギリョフ家を訪ねて200ルーブルを渡してほしいとアリョーシャに依頼を始める場面だが、このような場合にカテリーナは「勤め先で何か悪いことをしてクビになった」というような露骨な説明の仕方はしないのではないだろうか。先行訳の「落ち度」という言い方のほうがいいように思う。
また、カテリーナは、「あなたに目をつけたってわけ」というような不躾な言葉遣いもしないように思える。もっとデリカシーのある言い方をするのではないだろうか。
この「あなたに目をつけたってわけ」中の「わけ」という言葉遣いを、亀山訳はカテリーナだけではなく、グルーシェニカ、ホフラコーワ夫人、リーズと、読んでいて気づいた範囲では4人の女性にさせている。ここで纏めて述べることにするが、下記のとおりである (この部分は、小沼訳の引用は省略した)。

(グルーシェニカの発言)
新訳 p168 で、こんどはわたしにやきもち焼いてるってわけ、わたしに罪をおっかぶせるためよ。

原訳 下・p117 あとであたしに責任をなすりつけるために、今ごろになって焼餅をやくなんて!

江川訳 p632 いまあたしに嫉いて見せるのも、あとであたしを悪者に仕立てようとしてなんだわ。


(ホフラコーワ夫人の発言) 3例
新訳 p180 いきなりわたしを好きになってしまったってわけ

原訳 下・p125 あたくしに恋をする気になったらしいんですの。

江川訳 p637 このわたくしに恋をする気になったらしいんですの。


新訳 p181 彼がわたしに握手してから、……わたしの片っぽうの足がずきずき痛みだしたってわけ

原訳 下・p126 あの人に手を握りしめられたとたん、急にあたくしの足がわるくなったんですの。

江川訳 p637 あの人に手を握りしめられたら、とたんにわたくし片足が痛みはじめたんですの。


新訳 p186 机に向かい、これを書きあげたんです。そして投稿し……活字になったってわけ

原訳 下・p129 テーブルに向って書きあげて、投稿したのが、掲載されたんです。

江川訳 p639 投稿したら、新聞に載ったんですわ。


(リーズの発言) 2例
新訳 p200 生きていくのは退屈そのものってわけ、そのくせあの人もうすぐ結婚するのよ。

原訳 下・p139 空想ならどんな楽しいことでもできるけど、生活するのは退屈だ、なんて。

江川訳 p645 空想でなら、どんな愉しいことでも空想できるけど、生活するのは退屈ですもの。


新訳 p204 口では恐ろしいとか言いながら、内心ではもう大喜びなの。その一番手が、このわたしってわけ

原訳 下・p142 恐ろしいことだなんて、だれもが言ってるけど、内心ではひどく気に入ってるのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ

江川訳 p646 みんな、恐ろしいことだなんて言いながら、心の中じゃ愛してるんだわ。わたしなんか、まっ先に愛しちゃってるもの


感想2 年齢は、カテリーナとグルーシェニカは20代、ホフラコーワ夫人は40代、リーズは10代であるが、亀山訳においては世代の相違も、また女たち一人ひとりの性格や生活環境の違いも関係なく、みなが会話のなかで「わけ」という言葉を遣っているのには読みながら仰天した。それでなくても、「わけ」という言葉のこのような遣い方は特異なのに。


新訳 p101 「リーズ、ぼくは死ぬほど悲しいんです! すぐに戻ってきます。でも、ほんとうに悲しくて!」
そう言って、彼は部屋から駆け出して行った。

原訳 上・p372 「リーズ、僕は深刻に悲しんでるんです! すぐ戻ってきますけど、僕には大きな、とても大きな悲しみがあるんです!」

小沼訳 Ⅰ・p328~329 「リーズ、僕には容易ならぬ悲しみがあるんですよ! 僕はすぐに帰ってきますけど、大きな、大きな悲しみがあるんです!」

江川訳 p219 「リーズ、ぼくはいままじめな悲しみを抱えているんです! すぐ戻って来ますけれどね、ぼくには大きな、大きな悲しみがあるんです!」

感想 「死ぬほど悲しい」という言い方をアリョーシャという青年がするだろうか?


新訳 p102  たしかに彼は、いま死ぬほど悲しかった。その悲しみは、これまで彼がめったに経験したことのないものだった。

原訳 上・p372 彼は本当に、これまでめったに味わったことのないような深刻な悲しみをいだいていた

小沼訳 Ⅰ・p329 事実、彼にはいままで経験したことのないような、容易ならぬ悲しみがあったのである

江川訳 p219 彼はほんとうにまじめな悲しみを抱えていた。それは、これまでに彼がめったに経験したことのない類いのものであった。

感想 この「死ぬほど」を語り手がこのように用いると、アリョーシャの場合以上に大きな違和感をおぼえる。


新訳 p103 カテリーナの頼みごとを聞くうち、ある事情が頭にひらめき、これもまたひどく彼の興味をかき立てた。二等大尉の息子で小学生の幼い少年が、声をあげて泣きながら父親のそばを走りまわっていたという話を聞いたとき、アリョーシャの頭にふとある考えが生まれたのだ。つまりその少年というのは、さっき、自分がいったい何をしたのかと問いつめたとき、いきなり指に噛みついてきたあの小学生にちがいない、という考えである
アリョーシャはいま、なぜかはまだ自分にもわからないまま、ほとんどそのことを確信していた。

原訳 上・p373 カテリーナの頼みの中で、やはりきわめてアリョーシャの関心をひいた点が一つあった。ほかでもない、二等大尉の息子のまだ小さい中学生が、大声に泣き叫びながら、父のまわりを走りまわっていたという話をカテリーナがしたとき、アリョーシャの心の中でそのときすでに、その少年はきっと、僕がどんなわるいことをしたのと質問したとたん、アリョーシャの指に噛みついた先ほどの中学生にちがいないという思いが、ふいにひらめいたのである。今やアリョーシャは、自分でもまだ理由はわからぬながら、そのことをほとんど確信していた。

小沼訳 Ⅰ・p330 カテリーナ・イワーノヴナの頼みのなかでちょっと気にかかり、同時にひどく彼の興味をひいた点がひとつあった。例の二等大尉の息子で、小学生の小さな男の子が、声をあげて泣きながら父親のそばを駆けまわっていたという話をカテリーナ・イワーノブナの口から聞いたとき、即座にふっとアリョーシャの頭に、先刻アリョーシャにいったい僕がどんな悪いことをしたのだと問いつめられて、いきなり彼の指に噛みついたあの小学生こそ、きっとその少年にちがいないという考えがひらめいたのである。自分でもなぜかはわからぬままに、アリョーシャはいまではきっとそうにちがいないと信じこんでほとんど疑わなかった。

江川訳 p219 カチェリーナの依頼でふと頭にひらめいたことに、もう一つ、ひどく気がかりな事情があった。カチェリーナが、例の二等大尉の息子で、まだ小学生の小さな子供が、大声をあげて泣きながら父親のまわりを駆けまわっていたと話したとき、アリョーシャはとっさにその子供というのは、まちがいなく、さっきのあの子に相違ない、ぼくがどんな悪いことをきみにしたと言うの? とたずねたとたん、アリョーシャの指に噛みついてきたあの小学生に相違ない、と直感したのだった。どういうわけでそうなのかはまだ自分でもわからなかったが、いまやそれはもうほとんど確信になっていた。

感想 新訳の「アリョーシャの頭にふとある考えが生まれたのだ。つまりその少年というのは、……あの小学生にちがいない、という考えである。」という表現は、いかにも説明的に感じられ、カテリーナの話を聞いている最中、アリョーシャの頭にふいに直感のように、ひとりでに浮かんだ思い(考え)、という生き生きした感じが出ていないように思う。


新訳 p129~131 「それも聞いております。危ないことでございます。クラソートキンというのは、たしかここのお役人ですから、ひょっとすると、これまた面倒なことになるかもしれませんでして……」

原訳 上・p391~392 「それもききました。危ないことでござりますな。クラソートキンというのは、ここの役人でしたから、ひょっとすると、また面倒なことになるかもしれませんです……」

小沼訳 Ⅰ・p346 「そのことも聞いております。まったく危険なことで、クラソートキンというのはこの町の役人でございますから、ことによると、また厄介なことが起こるかもしれませんな……」

江川訳 p230 クラソートキンというのはこの町の役人でございますから、このうえまた面倒なことがおきるかもしれません(略)

感想 クラソートキンの父親は県庁の役人だったが、14年前に亡くなっているので、ここは原訳の「ここの役人でしたから」がよいのではないのだろうか?


新訳 p129~131 「そう、怒りでございますよ!」言葉尻をつかまえて二等大尉は叫んだ。「まさにその怒りでございます! 小さな生き物ながら、大きな怒りでございます。あなたさまがまったくご存じないお話でございます。

原訳 上・p391~392 「怒り、ね!」二等大尉は相槌を打った。「まさしく怒りでござりますな。一寸の虫にも五分の魂、と申しますですからね。

小沼訳 Ⅰ・p346 「怒り!」と二等大尉はくりかえした。「確かに怒りでございますな。小さな子供の胸にも、大きな怒りがかくされているものですなあ。(略)」

江川訳 p230 「怒りでございます、はい!」二等大尉はその言葉尻をとらえた。「まったく怒りでございますよ。ちっぽけな子供の心に大いなる怒りでございますな。(略)

感想 「小さな生き物ながら、大きな怒りでございます」は、意味の理解はできるが、先行訳に比較して、すっきりと腑に落ちるというわけにはいかず、読んでいて少々ストレスを感じた。


新訳 p129~131 でも、わたくしのイリューシャは、広場であの方の腕にキスをした瞬間、まさにあの瞬間に、すべての真理を学びとってしまいましたんです。あの子のなかに地上の真理が入っていって、あの子を永遠にうちのめしてしまいましたんです」
 二等大尉は熱っぽい調子で、またもやわれを忘れて叫ぶと、まるでその『真理』がイリューシャをうちのめした様子を現に表してやろうとでも思ったのか、右手のこぶしで左の手のひらをぼんと叩いてみせた。

原訳 上・p391~392 うちのイリューシャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入りこみ、あの子を永久にたたきのめしたんでございますよ」またしても我を忘れたかのように、熱っぽい口調で二等大尉は言ったが、その際にも、いかに《真理》がイリューシャをたたきのめしたかを現実に示そうとするように、右の拳で左の掌をたたくのだった。

小沼訳 Ⅰ・p346 ところがうちのイリューシャはその瞬間その広場で、お兄様の手に接吻するやいなや、その瞬間たちまち真理という真理を自分の身につけてしまったのでございますよ。その真理が自分のものとなると同時に、また永久に叩きのめされてしまったのでございます」と夢中になってまたもや前後を忘れたように二等大尉は言った。そして『真理』がどんなにイリューシャを叩きのめしたか、それをまざまざと表現しようとでもするように、右手の拳骨で左手の手のひらをなぐりつけるのだった。

江川訳 p230 あの子の身内にこの真理が入りこんで、永遠にあの子をぶちのめしてしまいましたんでございます、はい」二等大尉は熱っぽく、ふたたび前後をわすれたようになってこう叫ぶと、《真理》が彼のイリューシャをぶちのめしたさまをまざまざと見せようとでもするように、右手の拳をかためて、左の手のひらをごつんと叩いて見せた。

感想 新訳の「様子を現に表してやろうとでも思ったのか」は、不適切な訳のように感じた。たとえば「思ってでもいるかのように」などとして、スネギリョフの行動の描写に徹したほうがよかったと思う。


新訳 p133  わたくしとイリューシャは、いつものようにいっしょに手をつないで歩いていました。あの子の手はほんとうに小さくて、指もほそくて、ひやっとしておるんです。なにせ、胸をわずらっているもんですから。『パパ、パパ』とあの子が言いました。『なんだい』とわたくしは答え、顔を見ると、あの子の目がきらきら光っているのです。『パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね、パパ』『しかたないさ、イリューシャ』とわたくしは答えました。

原訳 上・p393 『パパ、パパ!』あの子が言うんです。『何だい』と言って、ひょいと見ると、目がきらきら光ってるじゃありませんか。『パパ、あのときあいつはひどいことをしたね、パパ

小沼訳 Ⅰ・p348 ところが不意に『パパ、パパ!』と言うじゃありませんか。『なんだい』と言いながら見ると、眼がぎらぎらと光っています。『パパ、あのときあいつはほんとにひどいことを、ねえ、パパ!

江川訳 p232 『お父ちゃん、あのときはひどいことされたねえ!』――『仕方がないよ、イリューシャ』

感想 「ひどい目にあった」ことと「(誰かに)ひどいことをされた」ことの意味は明確に異なると思う。ましてこの出来事がイリューシャの感じやすい心におよぼした深甚な苦痛・衝撃の深さを考えれば、彼にとっては、決定的に異なるはずである。


新訳 p141 あの人はあなたが兄から受けたのと同じような辱めに耐え(辱めの程度はちがいます)、あらためてあなたのことを思いだしたんです!

原訳 上・p398 あの人は自分が兄から、あなたの受けたのと同じような(侮辱の程度においてですが)侮辱を受けたときに、はじめてあなたのことを思いだしたのです!

小沼訳 Ⅰ・p352 あのひとがあなたのことを心に思い浮かべたのも、自分があなたとまったく同じような侮辱を、(つまり同じ程度の侮辱を)あの男から受けたときなのです!

江川訳 p235 あの人があなたのことを思い出したのも、自分があなたと同じような辱しめを(つまり、辱しめの程度ということですが)兄から受けたときでした!

感想 ドミトリーからカテリーナが被った侮辱とスネギリョフが被った侮辱について、新訳は「侮辱の程度が異なる」としているが、先行訳は「侮辱の程度が同一」としている。二人がうけた侮辱の性質が異なることは読者にも分かっている。同一だというのであれば、それは「程度」だということになると思う。先行訳のほうが適切ではないだろうか。


   第5編 プロとコントラ

新訳 p159 リーズは、彼の話に異常なほど心を動かされていた。アリョーシャは彼女のまえで熱い思いをこめ、「イリューシャ」の面影をありありと描きあげていった。あのかわいそうな将校が、お金を足で踏みにじった場面を微にいり細をうがち話してやると、リーズはもう気持ちを抑えきれず、両手をぱんと叩いて叫んだ。

原訳 上・p409 リーズは、彼の話に異常なほど心を打たれた。アリョーシャが熱烈な感情をこめて彼女の前にイリューシェチカの人間像を描きだしてみせたからだ。あの不幸な男が、金を踏みにじった情景を、微細にわたって話し終えると、リーズは両手を打ち合せ、感情を抑えきれずに叫んだ。

小沼訳 Ⅰ・p409 リーズは彼の話にひどく感動させられた。アリョーシャは熱烈な感情をこめて彼女の前に『イリューシェチカ』の姿を描きだすことに成功したのである。

江川訳 p242 リーズは彼の話に深く感動させられた。アリョーシャは熱烈な感情をこめて彼女の前に《イリューシェチカ》の姿をみごとに描き出してみせた

感想 新訳の「面影」には違和感をおぼえた。「面影」という言葉は、イリューシャという少年の精神的側面を伝ええないだろう。アリョーシャがリーズに話してきかせたのは、イリューシャの「人間像」「人物像」であり、その姿が生き生きと語り、伝えられたからこそ、リーズは感動したはずなのだ。亀山氏は、「解題」「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」において、イリューシャを異常な性格の少年のごとくに述べているが、実際、亀山氏はイリューシャについて気高い精神をもったえがたい少年とはとらえていないのかも知れない。この「面影」には亀山氏のそのような認識が現れているのではないかという気もする。


新訳 p196 「……(略)どうかくれぐれもお願いしますが、ぼくのことも、ぼくがお教えしたことも、ドミートリイさまには何もおっしゃらないでください。なにしろ、あの方はとくにこれという理由もなく人殺しをする人ですから

原訳 上・p391 「……(略)ただ、くれぐれもお願いします、わたしのことや、わたしがお知らせしたなんてことは、何もおっしゃらないでくださいまし。なぜって、あの方はとくにこれといった理由がなくても殺しかねないんですから

小沼訳 Ⅰ・p387 「……しかしくれぐれもお願いしておきますがね、私のことも、私がお知らせしたことも、絶対におにいさんには言わないでくださいよ、でないと私は間違いなく殺されてしまいますからね

江川訳 p257 「……私のことも、私がお知らせしましたことも、あの方にはご内聞にお願いしますよ、さもないとそれこそわけも何もなく殺されてしまいますから

感想 いくら何でも「あの方はとくにこれという理由もなく人殺しをする人ですから」という言い方はないのではなかろうか。たとえ発言主がスメルジャコフであっても。私はこの場面を読んで大変驚き、次いで笑ってしまった。これではドミートリイが過去に実際に理由もなく人を殺したことがあり、しかも発言主のスメルジャコフはその場面を見たか聞いたかした経験があるかのように感じられる。


新訳 p199 アリョーシャは、イワンがこの料理屋にほとんどいちども足を運んだことがなく、そもそもこういった類の店をあまり好んでいないのを知っていた。ということは、彼がここに顔を出したのは、兄のドミートリイとの約束で落ちあうためだけかもしれないと思った。もっとも、そのドミートリイの姿はなかった。

原訳 上・p438 アリョーシャは、イワンがこの飲屋にほとんど一度も来たことがなく、また概して飲屋を好まないのを知っていた。してみると、ここにこうしているのも、ドミートリイとの約束で落ち合うためにほかならない、と彼は思った

小沼訳 Ⅰ・p388 イワンがこのレストランにはほとんど足を踏み入れないこと、また全体にレストランなどはあまり好きでないことを、アリョーシャはよく知っていた。してみると、彼がこんなところにいるのは兄のドミートリイとの約束で、ここで待ち合わせるためにちがいない、と彼は考えた。しかし、兄のドミートリイの姿は見当らなかった。

江川訳 p258 アリョーシャは、イワンがこの料亭にはほとんど一度も来たことがなく、元来が料亭のたぐいを好んでいないことを知っていた。してみると、ドミートリイとの約束で、ここで落ち合うためだけにわざわざ足を運んだものらしい。けれど、そのドミートリイの姿は見えなかった。

感想 新訳の「落ちあうためだけかもしれないと思った」の「かもしれない」という表現は前文を読むと疑問である。ここは断定でなければならないのではないだろうか。


新訳 p212 いったいなんのために、おれたちはこの町にやってきたんだ?

原訳 上・p448 何のためにおれたちはここへ来たんだい?

小沼訳 Ⅰ・p397 いったいなんのためにここへやってきたんだい?

江川訳 p264 だってぼくら自身のことを話し合うためなら、まだ充分に余裕があるもの、ぼくらがここへ来たのは、自分のことを話すためだったんだろう? どうしてそんなけげんな顔をするんだ? さあ、答えてくれよ、ぼくら二人、ここへ来たのはなんのためだい? カチェリーナ・イワーノヴナへの愛情問題を話すためかい? 親父やドミートリイのことを話すためかい? 外国のことを話すためかい? ロシアの悲惨な国情やナポレオン皇帝の話をするためかい? そうなのかい、そんなことのためだったのかい?」
「いいえ、そんなことのためじゃありません」

感想 江川訳が一番全体の文意を理解しやすいと思ったので長めに引用したが、「ここへ」の「ここ」は、現にイワンとアリョーシャが話し合っているその飲屋(飲食店)のことではないだろうか。新訳の「この町」では、兄弟三人のそれぞれが、それまで住んでいた別々の土地からやってきて今一同に会している「この町」のことを指しているように思えるのだが。


新訳 p212 おまえがまる三ヶ月、もの欲しそうにおれを見つめていたのは、いったいなんのためだ?

原訳 上・p448 お前だって、それだからこそ、三カ月もの間、期待の目で俺を見つめつづけていたんだろう?

小沼訳 Ⅰ・p397 いったいお前はなんのために三カ月ものあいだ、あんな期待するような眼でこの僕を見つめていたんだ?

江川訳 p264 おまえにしたって、この三カ月、いったいなんのためにあんな期待の眼差をぼくに向けていたんだい?

感想 「もの欲しそう」という言葉を普通、人がどのような場合に用いるかを思うと、この表現はいただけないのではないだろうか。


新訳 p213 いくらこのおれだって、もの欲しそうに三ヶ月もおれを見つめていたかわいい弟を悲しませる気はないぜ。

原訳 上・p449 いくら俺だって、三カ月もの間あんなに期待をこめて俺を見つめていたかわいい弟を嘆かせるつもりはないよ。

小沼訳 Ⅰ・p398 いくら僕だって三カ月ものあいだあんな期待するような眼で僕を見つめていた可愛い弟を、いまさら悲しませそうとは思わないよ。

江川訳 p264 ぼくがからかうだって? 三カ月間、あんな期待をこめてぼくを見つめていたかわいい弟を悲しませるなんて、そんな気をぼくが起こすわけがないよ。

感想 上の感想に同じ


新訳 p299 アリョーシャはとつぜん立ち上がり、彼に近づくと、何も言わず、彼の唇に静かにキスをした。
「実地で盗作と来たか!」イワンが、なぜか有頂天になって叫んだ。「いまのキス、さっきの詩の盗作じゃないか! でもまあ、ありがとうを言っておくよ。立てよ、アリョーシャ、さ、出よう、おまえもおれもそろそろ時間だろう」

原訳 上・p507 アリョーシャは立ち上がり、兄に歩み寄ると、無言のままそっと兄の唇にキスした。
「盗作だぞ!」突然なにやら歓喜に移行しながら、イワンが叫んだ。「俺の詩から剽窃したな! それにしても、ありがとう。立てよ、アリョーシャ、出ようじゃないか。俺もお前ももう行く時間だからな」

小沼訳 Ⅱ・p33 アリョーシャは立ちあがると、兄のそばへ歩み寄り、なにも言わずにそっとその唇に接吻した。
「文学的剽窃だぞ!」と、とつぜん一転して一種の歓喜にひたりながら、イワンは叫んだ。「そいつは僕の詩から盗んだんじゃないか! しかし、とにかくありがとう。じゃ、アリョーシャ、もう出かけるとしようか、俺にもお前にももうそろそろ時間だからな」

江川訳 p299 「ぼくはね、アリョーシャ、ここを去るにあたって、ぼくにもこの世界にせめておまえ一人はいる、と思っていたんだ」ふいに思いがけない感情をこめてイワンが言った。「ところがいまは、おまえの心の中にもぼくの場所はないことがわかったよ、かわいい隠者君。あの《すべてが許される》という公式を引っこめるつもりはないよ、ところがどうだ、おまえはこの公式のためにぼくを否定するんだろう、ええ、そうなんだろう?」
アリョーシャは立ちあがって兄に近づき、無言のまま静かにその唇に接吻した。
「盗作だぞ!」イワンはふいに浮き浮きした調子になって叫んだ。「いまの接吻はぼくの叙事詩から盗んだものじゃないか! でも、ありがとう。さあ、アリョーシャ、出かけるとしようや、ぼくもおまえも、そろそろ時間だしな」

感想 「なぜか有頂天になって叫んだ」という表現には違和感をおぼえた。これは「有頂天」の前に「なぜか」という言葉が遣われているせいだと思う。この「なぜか」という語彙により、読者をして、アリョーシャのキスをうけるまでのイワンの心情の流れや変化の過程を訳者はきちんと把握していないのではないかという疑問をもたせてしまったように思う。それだけではなく、この「なぜか」は、この重大な場面に前文とのつながりが切断された印象をもたらし、切迫感をも希薄にしているように感じた。
2009.10.14 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
去る8月5日、亀山郁夫氏と佐藤優氏によるドストエフスキー関連のトークショーが開かれたそうだ。このことを私はネットの検索をしていて偶々知り、「まぁだ、二人でやってるの!」と呆れた気分になったのだが、トークショーはどうやら満員御礼の盛況だったようである。

これで思い出したのが、もうずいぶん前に『小説新潮』という雑誌で読んだ、亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を批評した佐藤優氏の文章のことだ。当該雑誌を探し出して見てみると、2007年9月号(管理人注:読者の方に指摘されて初めて気付いたのだが、私は一年余 (2010年10月7日まで) 、この雑誌の発行年「2007年」を誤って「2008年」と書いていた。ブックオフで購入したのが発売翌年の2008年に入ってからだったため、発売年もその年と勘違いしてしまっていたようだ。)とある。この文章を読んだときの奇妙な後味の読後感は忘れられない。「トークショー」の盛況を記念して(?)、佐藤氏のこの一文についての感想を述べてみたい。

「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」は、佐藤氏の『功利主義者の読書術』という連載物の第5回目分のようだが、こんなことが書かれている。

「今回、亀山郁夫氏(東京外国語大学教授)がフョードル・ドストエフスキーの古典『カラフマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫、全五冊)の新訳を公刊した(以下、亀山訳という)。たいへんな勇気が必要になる仕事だ。ロシアにかかわる学者、新聞記者、外交官たちには一癖も二癖もある奴が多い。苦労して新訳を出しても「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」といった類のやきもち半分の悪口を言う輩が必ずでてくる。悪口も耳に人ってこなければ気にならないのであるが、ロシア屋さんの世界は狭いので必ず聞こえてくる。他人の訳に文句があるならば、対案で自分の翻訳を提示すればよいのに、それはしない。それだけの語学力がないからできないのだ。」

ずいぶん愚劣なことを述べているものである。ある翻訳に対して、もしも「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」という発言がなされたのなら、肝心なのは、それが実際、単なる「やきもち半分の悪口」なのか、それとも「なされるべくしてなされたまっとうな批判」なのかの見極めであろう。正鵠をえた批判ならば、それは作品にとっても、読者にとっても有益なのであり、むしろ絶対に必要とされるもののはずである。それとも佐藤氏は、膨大な数の誤訳があろうと、訳文がおかしかろうと、読者はおしなべて黙認すべきであるとでも言うのだろうか。

「他人の訳に文句があるならば、対案で自分の翻訳を提示すればよいのに、それはしない。それだけの語学力がないからできないのだ。」

との見解も、誤訳を指摘された際に見せた光文社の編集長の対応にそっくりである。内容は支離滅裂であり、そもそもの姿勢が非常に傲慢だ。どんな根拠があって「語学力がないからできない」などと断定するのだろう。また、翻訳できるだけの語学力 (この場合はロシア語の) がなければ批判は許されないとでも? 本当は「批判など一切するな」と言いたいのではないか。このような考え方をしているのでは、自らが批判されると、論戦に応じることも、反論もしないで、意識はただちに批判の封殺行為に向かうのもあながち無理はないような気がするが、私としては、ここで「批評精神の喪失はただの暴力と結びつくかそうでなければ追随的態度にいくかどちらかである。」という藤田省三の言葉を記しておきたい。

『小説新潮』を読んだ時、佐藤氏のこのような発言は、ロシア文学者の木下豊房氏が運営するサイト における亀山批判を念頭に置いてなされているのではないか。すでに木下氏のサイトで亀山訳批判を読んでいた私はその時そう思ったのだが、しかし、木下氏のサイトにおいて亀山氏の「誤訳問題」が初めて指摘されるのは2007年の12月であり、これは『小説新潮』に佐藤氏の上記の文章が載った4、5ヶ月程後のことになる。佐藤氏は木下氏のサイトを意識してあの文章を書いたわけではなかったのだ。これは上述した読者の方の指摘を受けて初めて気づいたことで、完全に私の早呑み込み、勘違いであった。

この点の私の推測はこのように完全に間違っていたのだが、ただし佐藤氏と亀山郁夫氏との共著『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)は2008年4月発刊であるが、この本における佐藤氏の発言内容は、『小説新潮』2007年9月号で述べていたところとまったく変わっていない。また、この『小説新潮』連載の『功利主義者の読書術』は、2009年7月に同じ表題で単行本として新潮社から出版されているが、この本を二 、三日前に見てみたところ、雑誌連載時の文章は何の変更もなくそのまま収載されている。

以上のことから、佐藤氏の考えは、2007年『小説新潮』執筆時からいまだ何の変化もないと見て差し支えないと思われるので、『 小説新潮』における佐藤氏の主張や見解を木下氏のサイトを参照することにより批判的に検討してみたい。まず指摘したいのは、次のことである。

佐藤氏は、「ロシアにかかわる学者、新聞記者、外交官たちには一癖も二癖もある奴が多」く、「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」などの悪口を言う輩が必ずでてくる、などと述べて亀山氏を擁護しているが、最初に亀山氏の誤訳問題を指摘したのは、「学者、新聞記者、外交官」などではない、商社に勤めるNN氏というドストエフスキーの一愛読者だったということだ。

木下氏によると、検証を始めるきっかけは、この人物から亀山訳の多数の問題点を訴えられたことだったそうである。ただ、NN氏は、「一愛読者」といっても、「大学でロシア語・ロシア文学を専攻し、卒業後、ロシア関係の商社勤めのかたわら、ロシア人のチューターを相手に、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』を音読で読破したという経験の持ち主」(木下氏)ということなので、必ずしもまったくの素人ということではないかも知れないが、かといって、佐藤氏のいうところの「ロシア関係の学者、新聞記者、外交官」でもない。木下氏は下記のように述べている。

「NN氏は電話で、亀山訳にはとても我慢できない誤訳が多いと語った。まだ手元に訳本がなく、確認しようのない私に、NN氏はロシア語原文と、亀山訳とコメントをつけた検証のテキストをメールで送りはじめた。私はNN氏の検証作業にだんだんに引きこまれていった。私はNN氏の読みの鋭さに感心すると同時に、亀山訳に唖然とした。これはロシア語の分かる者同士の意見交換にすまさないで、一般読者にも判断をあおぐ手だてを講じるべきだと考えた。そこでNN氏のコメントと並行して、問題個所を先行訳三種(米川正夫、原卓也、江川卓)の当該個所と対比する形をとることにした。検証作業のために、私も亀山訳第1冊を購入し、NN氏から問題個所のページと行の指摘を受けて、ロシア語原文と突合せて問題点を確認した。その上で、私が亀山訳の打ち込みを引き継ぎ、私の手元にある米川、原訳と対比、入力する作業をおこなった。江川訳の入力はNN氏がおこなった。」

サイトを訪れて拝読してみると、上記の検証作業は手間を厭わない本当に懇切丁寧なもので、私は木下氏およびNN氏によるこの検証に学ぶことが大変多かった。批評の価値の有無や大小は、それが作品と読者にとって有益かどうかにあるのではないかと思うが、このような批判文を読むことができたことに文学作品の読者(愛好者)である私は(好みは偏っているし、決して深い読解力をもっているともいえないにしろ)、文学のある真髄に触れたというような充実感を味わったので、これを読んだ後では、「やきもち半分の悪口を言う輩が必ずでてくる」などという発言はなんとも低劣なものに感じられた。

2007年末、上記の検証結果がサイトにアップされたところ、九州在住のドストエフスキーの愛読者である森井友人氏から木下氏宛てに長文の手紙が届いたそうである。木下氏はその経過について下記のように記している。

「私とNN氏が「検証」を公開したのは、昨年(2007年)12月24日のことだった。間もなく、年が明けての1月2日付けで、森井氏から長文の手紙が届いた。そこには、「検証」を見て、「我が意を得たりと、胸のつかえがおりる思いがし、非礼を顧みず一筆差し上げることにしました」と書かれていた。日本語だけが頼りの一読者として、亀山訳の不適切な個所に疑問を感じ、光文社の編集者直々に問題個所を指摘するなど、私たちの 「検証」公開に先立つ、森井氏の孤軍奮闘の幾月かがあったのである。(略)
森井氏はすでに誤訳とおぼしき 不適切な個所のリストを作成しており、そこには「検証」と一部重なりながらも、そのほか私達が見逃した数々の重要な個所が指摘してあった。それらは当然ながら、ロシア語の専門的立場から検討に値するものと思われた。そこでNN氏の賛同と協力を得て、「一読者による点検」の作成を開始したのである。」

森井友人氏は、ロシア語はまったく読めないそうである。しかし、誤訳に気づいた。この点について、森井氏自身の説明は次のとおりである。

「読み始めてみると、すいすい読めるという評判に相反して、これが読みにくい。訳文が頭に入ってこない、言い換えれば、文脈が読み取りにくいのです。最初は、こちらの頭の調子が悪いのかと思ったのですが、途中でいくらなんでもこれはおかしいと思い、原訳・江川訳を引っ張り出して確認したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。それまでも引っかかりながら読んで いたので、ここで私は改めて初めから読み直すことにしました。さて、その気になって読んでみると、あちこちに誤訳・悪訳が目に付きます。これまでも誤訳に 気づいた訳書はあります。しかし、今回はその数がちょっと多すぎます。正直なところ、唖然としました。」

最終的な責任はロシア文学者でありサイトの運営者である木下氏が負うとしても、上記の「検証」「点検」作業は、木下氏だけではなく、むしろ一般読者のNN氏や森井氏によって担われている。「亀山訳批判」への佐藤氏による反批判は的を射たものとは言えず、亀山氏への迎合とでも評するのが一番適切なように思われる。

ところで、面白いと思ったのは、佐藤氏が記事のなかで「後に筆者が若手外交官の翻訳をチェックするようになると、誤訳はすぐに気がつくことがわかった。まず日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている可能性が高い。」と述べていることだった。この発言は奇しくも「点検」を行なった森井友人氏が亀山訳を誤訳ではないかと疑った理由と同じである。森井氏が亀山訳をおかしいと思った契機は、上述のように、「カラマーゾフの兄弟」の訳文が頭に入ってこなかったことであり、「「原訳・江川訳を引っ張り出して確認したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。」と述べている。

佐藤氏も森井氏も同じく、日本語の意味が通らない場合は誤訳の可能性が高いと発言しているのだが、ところが、亀山訳に関して二人が導きだした結論は正反対のものである。「点検」作業において(「検証」もそうだが)、森井氏はまず疑問を感じた箇所の新訳を掲載し、それに対する自身の疑問を率直に記している。その後に、原卓也訳、江川卓訳を引用、その上、原文とNN氏による解釈と解説を附すというように、作業は大変実証的に、サイトを訪れた誰でもが理解・納得できる公明正大なかたちでなされている。一例を以下に引用させていただく。

新訳 (母ソフィアは)どうかこの子をお守りくださいとお願いするかのように、両腕にかかえた赤ん坊を聖像の方へ差し出している┄┄。と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。そういう光景なのだ!
アリョーシャは、�その瞬間の母の顔もはっきりと覚えていた。�思い出せるかぎり、母は狂乱しながらも美しい顔をしていたと彼は話していた。

森井の疑問 最初に気になったのは、後段の方である。�の「~できるかぎり(では)」という表現は、その行為の精一杯の限度を示す。これは、�と矛盾する。「はっきり覚えていた」のなら、楽々と思い出せたはずで、精一杯の努力は要らないはずである。
この時、�が目に入って、先行訳との違いに気づきました。─先行訳では、驚いた(おびえた)のは乳母の方である。意味はどちらも通るが、文脈上、ソフィアの神がかった行動を目にして、赤子を案じた乳母が驚いた(おびえた)とするのが自然ではないか。こう感じていたが、「検証」で確認できました。
原訳 (…)そこへ突然、�乳母が駆けこんできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる。こんな光景なのだ! アリョーシャが�母の顔を記憶にとどめたのも、その一瞬にだった。その顔は狂おしくこそあったが、�思いだせるかぎりの点から判断しても、美しかったと、彼は語っていた。
江川訳 (…)と、ふいに�乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる。これがその光景であった! アリョーシャは�その瞬間の母の顔を覚えていた。彼の話では、これは、取り乱してこそいたが、�思い出しうるかぎりでは、実に美しい顔であったという。
原文 ... и вдруг вбегает нянька и вырывает его у нее в испуге.  Вот картина! Алеша запомнил в тот миг и лицо своей матери: он говорил, что оно было исступленное, но прекрасное, судя по тому, сколько мог он припомнить.
解説(NN) 「覚えていた」の原語は“запоминл ザポームニル” で、“запомнить ザポームニチ (覚える、記憶に留める、記憶する)” という完了体動詞の過去形。完了体動詞の過去形には「或る動作が完了して、その結果がいまだに残っている」というニュアンスが含まれます。しかし、「はっきりと」の意味合いまでも含まれるかというと、これはさに非ず。「はっきりと記憶に留める」と言う場合には何らかの副詞、たとえば “хорошо ハラショー (よく)” なりを補って “Хорошо запомни! ハラショー・ザポームニィ!(よく覚えておけ!)” などと表現します。当該個所には何の副詞もなく、「はっきりと」は翻訳の際に補われたものです。「はっきりと覚えていた」のすぐ後に続く文が「思い出せるかぎり(原文は “судя по тому, сколько мог он припомнить スージャア・パ・タムー、スコーリカ・モーク・オン・プリポームニチ”)」と始まっているのは確かに不自然。不適切な語の補いの例です。
  「驚いた顔の母」という誤訳については、言及のとおり、先の「検証」で詳述しております。
森井追記 �は、「検証」の指摘に従って新訳第20刷で訂正されている。
(訂正前)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。
(訂正後)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�おろおろと母の手から幼児を奪いとる。
ただし、今回初めて指摘する�・�は手つかず。矛盾したままです。」

以上、一例だけ引用させていただいたが、私はこの「点検」の方法にも、そこで述べられている内容にも納得するところが多かった。あとは直接サイトをご覧いただくとして、問題は佐藤氏のほうである。

佐藤氏も、「日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている可能性が高い。」と、森田氏と近いことを述べているのに、そういう佐藤氏は、森田氏らが上記のように丁寧に指摘している亀山訳の明白な誤訳の数々をどのように見ているのだろうか。そう思わずにいられないのだが、もちろん佐藤氏はそんなことには頓着しない。それどころか、亀山訳を絶賛していわく、

「亀山訳を通読して、筆者は何とも形容しがたい感銘を受けた」、「大審問官伝説でドストエフスキーが拒絶しているのは、イエズス会型のカトリック教会のみでなくプロテスタント諸教会を含む西欧のキリスト教総体であるということが、亀山訳を通じれば、ロシア語の知識がない読者にも明らかになる。「神は細部に宿り給う」というが、このような重要な細部を正確に翻訳することができる亀山郁夫氏のような翻訳者をもつわれわれは幸せだ。」

と、今更ながらのありきたりな読後感の披瀝とともに、「亀山郁夫氏のような翻訳者をもつわれわれは幸せだ」とまで記している。「われわれ」が誰を、どのような範囲を指し示しているのか分からないが、「検証」や「点検」を読んだ後では、このような言い分は無恥の厚かましさとしか思えず、怒りさえおぼえる。

佐藤氏が「日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている…」と述べた上で亀山訳を正確だと称賛しているのは、「大審問官」の前書き部分に相当する次の箇所である。

「その彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『わたしはすぐに来る』と書いてから15世紀だ。彼がまだ地上にいたとき述べたように『その日、その時は子も知らない。ただ父だけがご存じである』であっても、人類はかつての信仰、かつての感動をいだいて彼を待ちつづけている。いや、その信仰は昔よりもむしろ大きいくらいだ。なぜって、天から人間に与えられた保証が消えて以来、もう15世紀が過ぎているんだからな。

心が語りかけることを信じることだ
天からの保証はすでにないのだから

つまり、心が語りかけることに対する信仰だけがあったんだ! たしかに、当時は奇跡もたくさんあった。奇跡的な治療をおこなう聖人もいたし、『聖者伝』によると、義しい人々のもとへ、聖母が自分から天くだったとされている。でも悪魔だってそうそう昼寝ばかりしてたわけじゃない。人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。(亀山訳、第二巻、253~254頁)」

佐藤氏は、上記の亀山氏の訳文に下記のような解説をしている。

「このポイントになる「大きな星」の部分を、標準的定本である『ドストエフスキー30巻全集第14巻』(レニングラード、1976年)から直訳するとこうなる。
〈「松明に似た」巨大な星が(それは諸教会のことである)「水源の上に落ち、そして水源が苦くなった」〉
括弧をつける部分が少し違っているが、亀山訳は原文に忠実だ。この点について、先行の米川正夫訳(岩波文庫、1928年、1957年改版)、原卓也訳(朝潮文庫、1978年)と比較してみよう。
〈ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。〉(米川訳、第二巻、78頁)
〈北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。〉(原訳、上巻、476頁)
原文を素直に読む限り、「松明に似た大きな星」が教会を指すのである。つまり「大きな星」が教会そのものにたとえられるのだ。そして、『ヨハネの黙示録』によれば、その星の名前が「苦よもぎ」と言うのだから、ここから読者の印象が大きく広がっていく。亀山訳だと『カラマーゾフの兄弟』が聖書の世界に連結していく。米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。
 更に米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。原訳、亀山訳のロシア正教から見たキリスト教の異端、すなわちこの異端はプロテスタンティズムを示唆しているという解釈が正しいのである。」

私はロシア語を読めないので、佐藤氏の引用する箇所も当然日本文として読んだ。その上で述べるのだが、佐藤氏の上述の解説ははなはだ疑問である。佐藤氏は、米川・原の両先行訳と比較して亀山訳を絶賛しているが、比較するのならなぜ引用文のすぐ後にどんな文が続いているのかを問題にしないのだろうか。この場合は、それをも見なければ、先行訳と亀山訳のどちらが日本文としてすぐれているか、判別できないことは文脈上明らかだと思う。よって、佐藤氏が上記で引用している亀山・米川・原の三氏の訳文に続く文を加えた上で、佐藤氏の見解が妥当かどうかを検討してみたい。

亀山訳
「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。
 で、これらの異端者たちは、奇蹟を冒瀆的に否定しはじめた。ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」

米川訳
「しかし、悪魔も昼寝をしてはいなかったから、これらの奇跡の真実さを疑うものが、人類の中に現われ始めた。ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。これらの邪教が罰あたりな言葉で奇跡を否定しにかかった。しかし信仰を保っている人は、なおさら熱烈に信じつづけた。」

原訳
「しかし、悪魔も居眠りをしちゃいないないから、人類の間にはすでにそうした奇蹟の真実性に対する疑惑が起り始めていた。北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。この異教は冒瀆的に奇跡を否定しはじめた。だが、依然として信仰を持ちつづけた人々は、そのことによっていっそう熱烈に信ずるようになった。」

日本文として読むかぎり、米川・原訳のほうが亀山訳よりはるかにすっきり意味が通ると思う。亀山訳のように「星」を「教会のこと」と確定してしまえば、その後に続く「これらの異端者たち」は前文からぷつんと繋がりが切れてしまい、文脈上「これら」とは何のことか分からなくなるではないか。また、亀山訳では「星」の象徴性が消え失せてしまうと感じる。
私の感覚では原訳が一番いいと思うし、次に米川訳をあげたい。残念ながら亀山訳は評価できない。佐藤氏は「米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。」と述べているが、この見解は、私にはそれこそ意味がまったく分からない。
佐藤氏は、「米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。」とも述べているが、辞書によると、「邪教」の含意はまず「社会の害悪となる宗教」なのだから、「邪教」でも何ら誤りではないと思う。

佐藤氏は、『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書2008年)においても奇妙な発言をしている。「亀山訳は、(略)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」などと述べているのだが、でもこれは完全にでたらめである。「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがち」などということはまったくなく、当然のことだと思うが、米川・江川・原の各氏をはじめ、小沼文彦氏の訳でも「大審問官」の舞台を「16世紀」と誤解の余地なく明記している。では他に、亀山訳が「これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」という箇所がどこかにあるのだろうか? あると言うのなら、それはどの場面なのだろうか? 錚々たる過去の翻訳者たちに対し、何一つまともな理由も根拠も示さずに「誤訳」云々と好き勝手にしゃべり散らすのは、非礼と不遜にすぎるのではないだろうか。

日本文学史上、ドストエフスキー作品の読解と解釈に欠くことのできない深い意味と豊かな稔りをもたらしたと思われる作家の埴谷雄高は、晩年「嘗ての私達は、米川ドストエフスキイを読んで、ひたすら米川さんの恩恵に浴している」「第二次大戦以前は、小林秀雄も私も、米川ドストエフスキイによってひたすら考察し、……」(「謎とき『大審問官』」福武書店1990年)と、米川正夫氏のドストエフスキー翻訳からうけた文恩について率直な言葉で語っている。何も埴谷雄高のような文学者やロシア語の専門家にかぎらない。数多くの一般読者がそれぞれに深い思いをいだいていたはずなのだ。

江川訳、原訳に対してもそうだが、先行訳について異論や反論を述べたいのなら、最低限の知的誠実さの証として、せめて基本的な事実関係くらいは正確に把握した後にしてほしいものだ。佐藤氏のような姿勢では、翻訳者のみならず、原作者であるドストエフスキー自身への関心の程度さえ疑われても仕方ないだろうと思う。

亀山郁夫氏の訳本についての感想も機会があったら記してみたい。


     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 2010年10月12日

読者の方から、先日(10月7日)、佐藤優氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」が載った『小説新潮』は、記事に書いてある「2008年9月号」ではなく、前年の「2007年9月号」ではないかとの指摘をいただき、調べてみたところ、確かにご指摘どおり、掲載号は「2007年9月号」でした。これまでこの記事を読んでくださった皆さんにお詫びいたします。一旦、記事中の「2008年9月号」を「2007年9月号」に直し、雑誌の購入時期を付したのですが、これだけの訂正では、時系列に矛盾が出るとの新たな指摘をいただきました。自分でもヘンだと思い、訂正の必要を感じてはいたのですが、話の展開上、これがなかなか難しいように感じられて、心ならずもしばらく放置していたのですが、今日なんとか訂正してみました。拍手コメントで二度も的確な指摘をくださった方、ありがとうございます。
2009.08.31 Mon l 文芸・読書 l コメント (6) トラックバック (0) l top
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